YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
それでも、日本人は「原発」を選ぶのか

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



加藤陽子東大文学部教授がお書きになった 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社刊)という本は、襟の正しい日本近代史解説書だと、ぼくは思いました。

なによりも まず、わかりやすい。
そして たぶん、嘘を言っていない。
わたしはこう思う ではなく、莫大な資料に基づいて こう判断するのが妥当だ、という文体です。

文に、歴史事実に対する真摯な態度を感じるのです。
歴史認識には、この態度がいちばん大切だと思います。


65年たった今も、先の 「戦争」に対する歴史認識に 同じ日本人で大きな隔たりがあるのは事実です。
でも この65年間、日本が無難に “戦後処理”を進めてこられたことは、戦後の日本のリーダーたちの先見の明と 日本国民の努力のたまものと思います。

ただ ひとつ、大きな間違った選択をした。
それは、原子力の平和利用に対する過信、原発です。


いま東北で起こっている事態は、あらゆる人知を尽くして 早急に食い止めねばなりません。
そして現に、多くの関係者が 献身的な働きをされています。
ほんとうに頭が下がります。
彼らの責任感の崇高さを、誇りに思います。

それでも なかなか解決に向かわない。
人工放射性同位元素の核分裂反応をコントロールするむずかしさと、コントロール不能時のおそろしさです。
全くコントロールできなくなれば、原子爆弾と同じです。


まず、いまの恐ろしい状況から抜け出ることが先決であることは、言うまでもありません。
幸いにして危機的状況を脱したとして そのあとも、これから ぼくたちは 「原発」にどう立ち向かうのか、という 大きな大きな問題を抱えるのです。

この国を二分するくらいの、大きな論争となるでしょう。
それでも この問題は、避けることはできない。
いや 今こそ、この問題を徹底的に論議しなければならない。


まだ過去の歴史になっていない現実である 「原発」に、歴史的検証でどうのこうの言うのは、いまは不適切です。
しかし、二つの原子爆弾を浴び 核分裂エネルギーの凄まじさを体験した日本が、どうして 原子爆弾と同じ核分裂エネルギーの “平和利用”には鈍感でいられたのか、ここのところは 正しく歴史認識しなくてはならない。
そうでないと、これからをどうするか、が見えてこない。


ぼくは、原発に反対です。
そのわけを、お話します。
「正しい歴史認識」は、ぼくには語る資格がありません。
加藤陽子教授のような、緻密な歴史資料分析能力がないからです。
原発反対の理由は、もっぱら “技術者のはしくれ”からの発想です。


まずもって、人工放射性同位元素の核分裂反応をコントロールするむずかしさと、コントロール不能時のおそろしさです。
先日 テレビの討論番組で、どこかの評論家が こんな発言をしていました。

  この原発事故で 人類の科学的進歩が足踏みしてはならない。
  飛行機の墜落事故で 飛行機に乗ってはならないことにはならないでしょう。

原発事故と飛行機墜落事故とを同列に考えるこの評論家のアホさ加減に、呆れてしまいました。
核分裂のことを少しでも勉強していれば、こんな発言は恥ずかしくてできないはずです。


この地球は、磁場と大気のおかげで、高放射能を持った宇宙線から守られている。
もし これら遮るものがなければ、この地球上に人間は生きてゆけない。
想像できます、宇宙服を着た 一握りの人間だけが、廃墟の街をさまよう姿が。
高放射能とは、そういうものです。


原発に反対する、もう一つの大きな理由があります。
それは、核分裂をコントロールする場所、原子炉(パイル)の問題です。
これは、“ものづくり”の問題です。


例えが唐突ですが、東大寺大仏殿と原子炉を比べてみてください。
どちらも きっと、すごい設計者たちが考えだしたのでしょう。
しかし、ものを作るという観点からは、両者に雲泥の差があります。


東大寺大仏殿は、その建設に携わるすべての人たちが、たとえ ものづくりの専門家ではなくても、大仏殿をつくることに喜びと誇りを感じていたはずです。
真心のこもったものづくりには、ヒューマンエラーという 避けがたいトラブルの忍び込む度合いが少ない。

ところが、原子炉は、その建設に もちろん手抜きはないでしょうが、建設に携わった人たちみんなが 喜びと誇りを感じていたかどうか。
原発に多少なりとも疑いをもっていたとするなら、大仏殿を作るような真摯な心で 仕事ができていたとは思えません。

そこには、ヒューマンエラーという不可避な要素が、皆無とはいえない。
ましてや、お金で動いた仕事には、設計者が及びもつかないミスが潜んでいるものです。
このことを、ものづくり屋のはしくれであるぼくは、痛いほど実感として持っています。


絶対に漏れてはならない器、原子炉に、あってはならないヒューマンエラーの可能性がゼロとは言い切れない。
ここが、問題なのです。


蛇足ながら、もしぼくが原子炉の設計者ならば、絶対に漏れてはならない器なんか 絶対に設計できない。
根本の設計基本条件の対象そのものが、人知の計り知れない “想定外”の自然相手なのです。
そんな恐ろしい設計など、ぼくにはできません。


これが、ぼくが原発に反対する理由です。