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技術は人を安らげるためにある

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このあいだ 久しぶりに電話をくれた畏友・松並壯君が、受話器の向こうでちょこっと話していた言葉を、いま反芻しています。
新居浜で働いていたころ、ぼくが彼にメモして渡したという、そしていまも持ってくれているという、つぎの言葉です。

  技術は、人を驚かすためにあるのではなく、人を安らげるためにある。

ぼくは、このたびの原発事故で 知らず知らず、科学技術に憎しみをいだいていたようです。


眠れない床から起きだして、読まずに置いてあった ここ数日の新聞を、めくっていました。
4月24日付けの朝日新聞の 「声」欄に、こんな投書を見つけました。

『震災禍 科学に背いた報い』と題する、奈良県王寺町にお住まいの大学教員・野崎充彦さんの投稿です。
少し長くなりますが、全文を転記します。


  今回の大地震と原発事故について、宗教学者山折哲雄氏の本紙文化面 「科学技術よ、おごるな
  かれ」は、一般論としてはまっとうな指摘だった。
  確かに、自然の猛威の前に人は無力なのだろう。
  だが、私は山折氏の意見に違和感を禁じ得なかった。
  というのも、福島第一原発での事故を 「やっぱり起きたか」と感じた人が多かったはずだからである。
  最悪のこの事故は不可避だったのではなく、政治家も経済人も科学者たちも 「不都合な事実」から
  目をそむけ、原発の 「安全神話」を吹聴した結果が今の惨状を招いたのではないか。
  とすれば今回の災厄は、科学技術のおごりではなく、真の科学精神に背を向けた報いだったという
  べきだろう。
  現下の経済財政状況に縛られ、産学協同の立場から、その危険を知りつつ口をつぐんだ研究者もいた
  のではないか。
  理系・文系を問わず学問研究が尊重されるのは、真実を極めようとする姿勢にある。
  研究者がその責務を貫かず 「曲学阿世」に走れば、天災という名の人災は果てしなく繰り返される
  だろう。


山折哲雄氏の 「科学技術よ、おごるなかれ」という記事は 「科学技術者よ、おごるなかれ」というべきであった と、ぼくも思います。

ただ、この投稿の発言には、じゃぁなんで捨て身で原発に反対してこなかったんだ という自責の念が伴います。

怖いのは、この原発事故で人びとの心に、科学技術を忌む気持ちが宿ることではないでしょうか。
そして もっと怖いのは、原発事故を招いたと目される人々への憎しみです。

天災は恐ろしい。
でも 天災は、自然を畏れる気持ちは高ぶっても、人への憎しみは生まれません。

これに対して 人災は、その怒りが人に向かいます。
戦争も同じです。
だから、人災も戦争もあってはならないのです。

避けられない天災を少しでも和らげるのは、科学技術です。
科学技術を憎んではなりません。
憎むべきは、科学技術を自由に操っているつもりの人間のおごりです。


冒頭に述べたメモは、実はぼく自身、ずぅっと忘れていたのです。
松並君が還してくれた言葉に、目が覚めた思いです。

そうだったんです。
技術は、人を驚かすためにあるのではなく、人を安らげるためにあらねばならないのです。

あのメモを いまでも持っていてくれた松並君に、感謝します。