YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
無縁坂

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トーク番組<ディープピープル>を見ていたときのこと。
演歌プロフェッショナルの小林幸子、坂本冬美、長山洋子の鼎談だった。
モニターの関根勤が、彼自身の感動経験を語っている途中、いきなり涙を見せた。
彼を想い出泣きにさせたのは、さだまさしの 『無縁坂』だった。

あの涙は ほんもので、芸人の作り涙などではなかったと思う。
関根勤が、ますます好きになった。


このことがきっかけで、久々に、さだまさしの 『無縁坂』を聴いた。

ぼくは、母に手をひいてもらった記憶がない。
母がため息をついたのも、知らない。
だから、『無縁坂』を聴いて、関根勤のように 想い出泣きはできない。
でも、多くを語らない さだまさしの母への祈りは、ぼくの胸にも通底する。
悲しみが、大きく やさしく包みこんでくる。


母を饒舌に語る人は、ぼくの友人にはいない。
たぶん、男はだれも 母のことを多く語りたがらない。
とりわけ 10歳くらいまでの記憶は、母のことで つまっているはずなのに、母のことは 語れない。
少なくとも、ぼくは そうだ。

思い出そうとしないから、思い出せない。


ひとつだけ、『無縁坂』を聴いて 勝手に思い出すことがある。
4っつか5つくらいの時だったろう。
人ごみの中だった。
小さかったぼくは、はぐれまいと 母の着物の裾を必死に握っていた。
その着物の人が 母だということを、着物からかすかに漂う樟脳の匂いで 嗅ぎ分けていた。

ところが、必死で握っていた着物の人は、母ではなかった。
人違いだったのである。
どうしようもない孤独感に 身が震えた。
あの体験を、いまでも ときどき夢に見る。


母という言葉自体、母を言い当てていない。
おふくろさん となると、もっと遠くなる。
ママなんぞ、とんでもない。

母は、幼いころの自分のすべてであった。
自分と母の区別がつかない。
その母を ことばで語るなぞ、自分の恥部を さらけ出すようなものだ。
そのくせ、母を感じていたいのである。


『無縁坂』を聴きながら、母を感じている。