YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
鳥辺野

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



京都の北の街中に、船岡山という 高低差50mほどの小山がある。
街中に こんなうっそうとした森があることが不思議なくらい いろんな種類の木々が茂った 隠れ場所である。

帰化植物に荒らされていない 貴重な森なのだそうだ。
山上には 織田信長を祀る建勲神社がある。見晴らしのいい丘だ。
清少納言が 「丘は船岡・・・」と讃えたのも頷ける。
平安京の都づくりの基点とされ、山の真南に大極殿、朱雀大路と続くのである。

私が通っていた小学校が近かったので、低学年の遠足先であった。
低い山なのだが、低学年の子供にとっては 結構な山と感じたものだ。

仲の良かった友達が南麓に住んでいたので 山上の公園でよく遊んだ。
この山の西麓一帯を『蓮台野(れんだいの)』といって、むかしの都人の葬場であった。
今もこのあたりは 十二坊や上品蓮台寺など お寺の多い地域である。
応仁の乱では、西軍の陣地となったので、周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。

蓮台野のほかに、西に化野(あだしの)、東に鳥辺野(とりべの)という葬地があった。
化野は 古くは風葬の地で、つい近年まで火葬場があった。
祖母はここで荼毘に付された。

祖母の葬式の記憶は、黒塗りの車に乗って 金閣寺からずっと山のほうへ入っていった陰気な火葬場の光景である。
ずっとのちになって、受験に疲れた青白い顔をして尋ねた 奥嵯峨の直指庵(じきしあん)で 故広瀬庵主に(勘違いされて)自殺を思いとどまるよう諭されたあと、その脚で訪れた 化野の念仏寺で浴びた 「死」 の親近感覚を、今も鮮明に覚えている。
化野は、「死」に一番近い場所なのだろう。

お彼岸になると ものすごい混雑になる東山五条の交差点を東へ、五条坂の南側から清水寺へ抜ける坂道は、私の好きな場所の一つである。観光バスや マイカーの往来が激しい五条坂に比べ、この坂道は閑散としていることが多い。

大谷本廟を右手に 少し坂を上がると、墓また墓。
左手に日支事変の肉弾三銃士の墓がある。
義母の眠る墓も この少し上にある。
右手には遠く国道1号線の 五条バイパスが見え隠れする。その手前一帯の山肌一面、墓、墓、墓である。

東山は西山と違って、墓場も陽気だ。
『鳥辺山心中』を著した 近松門左衛門も、今の世なら 別の場所を選んだに違いない。
このあたりを、鳥辺野という。
この先には、現在の京都市民が荼毘に付される 鳥辺山火葬場がある。
坂道をさらにもう少し登れば、もうそこは清水寺である。

この坂道は、晩年の義母にはきつかった。坂沿いの墓に刻まれた文字を追いながら、義父の墓へと ゆっくりゆっくり登ったものだ。

墓や死というものに対する忌み嫌う心情は、私にはもうない。
遠藤周作のエッセイ集 『万華鏡』 の中に こう書かれている。


幼年の頃に信じていたこと、動物も樹樹も話をするという童話の世界は、
少年になって失われ、それが長く続いた。
そして老いた今、ふたたびそのように失った世界を 私はせつに欲しがっている。
なぜだろう。
シュタイナーという思想家がこう言っていた。
人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが・・・
老年になると魂で世界をつかまえようとすると。
そして私もその三番目の魂の年齢になったからだ。



私も、三番目の年齢に近づいたということかもしれない。