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鯨法会

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18年前、朝日新聞の<天声人語>ではじめて目にした、短い詩。
金子みすゞの 『大漁』という詩から受けた湧きあがるような清い興奮は、いまでも忘れることができません。

あの優しさは、いったいどこから来るんだろう。
金子みすゞのふるさと・仙崎に行けば、なにかわかるんじゃぁないだろうか。
ずーっと そう思ってきました。


金子みすゞさんは、26年の短い命の間に、たくさんの詩を残しました。
どの詩を読んでも、どの詩を口づさんでも、溢れる優しさ。

鯨を詠んだ詩があります。
『鯨法会』という詩です。



   鯨法会は春のくれ、
   海に飛魚採れるころ。

   浜のお寺で鳴る鐘が、
   ゆれて水面をわたるとき、

   村の漁師が羽織着て、
   浜のお寺へいそぐとき、

   沖で鯨の子がひとり、
   その鳴る鐘をききながら、

   死んだ父さま、母さまを、
   こいし、こいしと泣いてます。

   海のおもてを、鐘の音は、
   海のどこまで、ひびくやら。



みすゞと仙崎、仙崎と鯨、鯨とみすゞ…
そのことを、堂々巡りで考えていました。

そんなとき、ネットで 「長門くじら資料館長ブログ」というウェブサイトを知りました。
そこには、鯨とみすゞの詩が、鯨とみすゞさんを心から愛してやまない館長の言葉で、綴られていました。

みすゞと仙崎、仙崎と鯨、鯨とみすゞ…
この堂々巡りが、長門くじら資料館長の暖かい文章から、徐々に確信ある思いに変わっていきました。


長門くじら資料館は、仙崎の北に浮かぶ青海島の東部、通浦(かよいうら)にあります。
その近くには、鯨墓や鯨位牌、鯨鯢過去帖を祀った向岸寺もあります。
みすゞの詩の原点を知りたいなら、通浦を訪ねなければ…

ということで、おもいきって 山口県長門市仙崎をたずねました。


仙崎は鯨の町でした。
近代捕鯨はここから発祥しています。
日本遠洋漁業株式会社、のちに東洋漁業株式会社となり、捕鯨王国日本を担いました。
捕鯨は廃れましたが、ニッスイに合併されて 今日まで続いています。

でも 仙崎の人たちの心根は、同じ捕鯨でも ノルウェー式砲殺捕鯨ではなく、古式捕鯨に対してであった、と思います。

近代捕鯨を牽引したノルウェー式砲殺捕鯨法は、古式捕鯨法とは 捕獲数で比べものにならないくらい大量の鯨を 捕獲しました。
乱獲と言っていいでしょう。

古式捕鯨では、「鯨一頭捕れば七浦うるおう」、そういう時代でした。
少なくとも 通浦の捕鯨は、最後まで古式捕鯨をつらぬき、浦人たちは、海によって生かされ、鯨に感謝して生きていたのです。

もともと仙崎湾は、流れ鯨や寄り鯨で恵みを受けていました。
鯨は、冬期の日本海を、出産と育児のために南下します。
だから仙崎では、捕鯨の漁期は、冬場でした。
そして 仙崎湾に迷い込む鯨には、受胎した母鯨も多くいたのです。

ふところ深い仙崎湾に迷い込んだ鯨は、時計回りに湾を旋回して、青海島東端の通浦に達します。
鯨の進路上に張られた網に 鯨を追い込み、網を絡ませて動きが鈍くなったところを 銛(もり)で突く、そういう「網掛け突き捕り法」は、まさに人間と鯨の死闘でした。

残酷という見方もできます。
その代表が、シーシェパードでしょう。
和歌山県太地町のイルカ漁を盗撮して アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞をとった 「ザ・コーヴ」に共感する自分が、どこかにありました。

「鯨上ると七浦枯れる」ということも、事実だったと思います。
鯨解体による地面海面の汚染、鯨骨や内臓が解体事業場から海に投棄され、海藻や貝に付着して 鯨漁以外の漁業に与えた悪影響もあったでしょう。

でも 長門くじら資料館を訪ねたいま、残酷という見方は、もっと大きなものに飲み込まれて 消えました。

通(かよい)という地名から想像できるように、通浦へ行くには 仙崎から船で通うしかありませんでした。
いまは 青海大橋があり、青海島を横断して舗装された道が、通浦へ通じています。

くじら資料館のうしろ、小高い山手に 鯨墓があります。
墓地には、七十数体の鯨の胎児が葬られています。


墓碑の正面に 「南無阿弥陀仏」、その下に 「業尽有情(ごうつきし うじょう) 雖放不生(はなつといえども しょうせず) 故宿人天同証仏果(ゆえに にんてんやどし ぶっかをしょうせしめん)」と刻まれています。

“前世の因縁で宿業の尽きたために、捕えられた野生の鳥獣たちよ。おまえたち野生動物は 放して天然のままにおいても、どうせ長くは生きられず、野たれ死にする運命にある。だから 人間すなわち成仏できる肉体の中に取り入れられ、それによって人と同化して 成仏するのがよろしかろう”


一見、人間に都合のよい きわめて勝手な言い分、のようにも思えます。
しかし、人間も いかなる動物も、“他”の生を犠牲にしてしか生きられない。
このことを 真剣につきつめれば、犠牲になってもらう “他”に、「かんにんしておくれ」と手を合わすしかない。

だから その本意は、「我々の目的は 本来、おまえたち胎児を捕るつもりではなく、むしろ 海中に逃がしてやりたいのだ。しかし おまえ独りを海へ放ってやっても、とても生き得ないだろう。どうか憐れな子等よ、念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを開いておくれ」、そういうことなのです。


通浦からの帰り道、大日比(おおひび)の西円寺(さいえんじ)に立ち寄りました。
意匠を凝らした禅宗風の山門をくぐると、簡素ではあるが堅実な造りの本堂が、大日比の海に面して堂々と構えています。

向って左が男用入口、右が女用入口の、念仏道場。
世界最初の日曜学校、小児念仏会(こどもねんぶつえ)を始めたお寺です。

毎月 子どもを寺に集め、法話や昔話を語り、仏前に供えた菓子を与え、共に念仏を唱えさせたといいます。
みすゞさんも、この日曜学校に参加したに ちがいありません。

金子みすゞが生きた時代、すでに古式捕鯨は終わっていました。
古式捕鯨の状況をリアルに生々しく表現した 『鯨捕り』という みすゞの詩の一節に、「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」とあります。

その発端は、ペリーの浦賀来航にあるのです。
その辺の事情は、川澄哲夫氏の著書 『黒船異聞』に詳しいのですが、みすゞさんへの思いには むしろ要らぬ知識かもしれません。

金子みすゞの詩には、鯨によってもたらされた恵みへの感謝や憐憫の情が強く働いている、そのことが知りたかっただけです。


青海島から仙崎の町へ橋を渡る手前に、こんもりとした丘があります。
王子山です。
この丘の上に立つと、仙崎の町が、まさしく みすゞの詩 『王子山』に描かれた風景として広がります。

左に仙崎湾、右に深川(ふかわ)湾、挟まれてくびれた仙崎の町並み。

512編の詩に描かれた、この小さな町のなかの、いたるところに、みすゞさんの明るく、美しい思いでが詰まっています。
みすゞさんにとって、この景色は まさに竜宮でした。

そしていま、こうして見下ろしているぼくにとっても…

金子みすゞを取り囲んでいた すべてのもの、風景や人情や習慣、そしてもう捕れなくなった鯨への思いが、あの詩からあふれ出る優しさの原点でした。

王子山から仙崎の町を見下ろしながら、そのことを強く感じ取っていました。