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原発は、やはり廃止すべきだと、思う

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内田樹(たつる)氏の著した 『日本辺境論』から、気づかされたことがあります。

第二次世界大戦のドイツにおける主導者は、ヒットラーでした。

太平洋戦争の日本における主導者は、一体誰だったのでしょうか。

ドイツの方の問いには はっきりと答えられるのに、日本の方の問いに 断定的に名指しすることができないのです。


3月11日以降の、新聞の切り抜きファイルが 膨らんできました。
その内容は、いまではほとんど 原発に関する記事です。
日本が原発大国になっていった姿が、おぼろげながら見えてきました。


福島原発事故の前 私は、日本に原子力平和利用を導入した主導者は、正力松太郎氏と中曽根康弘氏だと思っていました。
そうだから ばかりではありませんが、個人的には両者とも 好きなタイプではありません。
私がアンチ巨人軍の理由の半分以上は、正力松太郎氏のせいです。

そんな個人的嗜好は さておき、正力松太郎氏と中曽根康弘氏が 日本の原子力平和利用に主導的な役割を果たしたことは、間違いなさそうです。

ただ、「第二次世界大戦のドイツにおける主導者はヒットラーだ」的に名指しできるか となると、根拠はどうも弱い。

正力松太郎氏も中曽根康弘氏も、原子力の平和利用の真実をちゃんと理解して その主導者的な行動をとったとは、考え難いのです。

つまり、確信犯ではなさそうだ、ということです。


正力松太郎氏は、政界へ躍り出る足掛かりとして、「原子力の平和利用」を利用しただけではないのか。

中曽根康弘氏は、アイゼンハワーに象徴されるアメリカに対するコンプレックスから、日本の 「原子力平和利用」の道を選んだのではないか。

まったく正しいとは思いませんが、かなり当っているはずです。

つまり、原子力と人類平和の共存を、両人とも 強く信じていたとは考えられないのです。


内田樹氏の表現を借りると、私たち日本人は いつも周りをキョロキョロうかがっています。

「和を以て尊い」、語弊を恐れずに言えば 「空気を読むこと」を第一義とする性格を持っています。

風見鶏という不名誉なニックネームを有する中曽根康弘氏は、非常に優れた見識を持つ政治家である一方で、やはり 日本人のこういう性格を持った代表的な人だといえます。


福島原発事故を契機に、多くの日本人が 「原子力の平和利用」について、深く思いをめぐらされたことでしょう。
私も、そのひとりです。

そして たぶん多くの人たちが、原子力と人類平和の共存は不可能だ、と認識されたのではないでしょうか。
私も、そのひとりです。

ここで もう一度、「空気を読むこと」を第一義とする性格を 反省しなければなりません。
この性格は、短所でもあり長所にもなりうると信じていますが、いまは、この性格の優劣や善し悪しを問題にしません。

ただ、原発に関する ‘いまどき’の風潮に流されることだけは、避けねばなりません。
いま この問題を見誤ったら、取り返しのつかないことになることが、明らかだからです。


福島原発事故の責任を、正力松太郎氏や中曽根康弘氏に負わせたいところですが、その責任はやはり、私たちひとりひとりが負わねばならない。

広島と長崎の原爆、第五福竜丸の水爆実験ビキニの灰被曝、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故、もんじゅナトリウム漏れ事故、東海村JCO臨界事故…

放射能の恐ろしさを認識すべきチャンスは、いくらでもありました。
その恐ろしさを発信してくれる、多くの人々がいたのです。

それに耳を傾けなかったのは、私たちの責任です。

だから 「原子力と人類平和の共存は不可能だ」と、いまどきの空気に流されて、早計に決めつける愚だけは、犯してはならない。


それでも やはり、原子力と人類平和の共存は不可能だと、私は判断しました。

アトムズ・フォー・ピースを、アメリカの圧力で受け入れざるを得なかった 当時の社会情勢に理解を持てても、その後の原発推進は、天に誓って正当だったとは、どうしても思えない。

同時に、原子力を タービンを回す力に利用するには、その力の大きさの魅力以上に、リスクが余りにも大きすぎる。
少なくとも、この震災の多い日本の地には、原発は向いていない。


原発は、やはり廃止すべきだと、思います。