YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
一流

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



私の同期のほとんどは、会社の一線から退いている。
彼らに会って話をする機会があると、退いた会社の話を 自分から切り出すことは少ない。
趣味のこと 家族のこと 特に孫のこと 健康のこと・・・当り障りのない話題から入っていく。
でも、私は彼らがほんとうは退いた会社の話や 仕事の話をしたいと思っていることを知っている。

そりゃ そうに違いない。
20歳から60歳まで 男の一番盛りのときを、それも朝の8時から夜の8時まで 一日の一番活動する時間帯を捧げてきた 「時代」のことを 話したくないはずはない。
それとなく話題を 「彼の仕事だった」 ことに向けると、案の定 だんだん乗ってくる。
幸い(?)にも まだ働かねばならない私は、もっぱら聞き役にまわる。

茶化して言っているのではない。真剣な 真摯な話なのだ。
彼らは それぞれの分野で一流である。少なくともプロフェッショナルだ。
たとえ「その仕事」が あの “プロジェクトX” のような立派なものでなくとも、40年間なけなしの自分を捧げてきた仕事を、どうして茶化すことができよう。

プロが必ずしも一流とは限らない。むしろ 一流でないプロが多すぎる。
プロという言葉には、金銭の匂いがつきまとう。それは致し方ない。
客先を満足させてはじめてプロだ。満足の対価が金銭なら、プロが金銭を要求して当然である。

だが、一流のプロには それだけでないなにかがある。
誇りと表現してもいい。誇りのためなら、金銭を無視することを厭わない。
一流のプロに共通する もう一つの特徴は、努力であろう。
そうとばかりは言えないが、一流度は その道に掛けた なけなしの時間(おのれの命と言ってもいい)の長さと比例するのではあるまいか。

寝ても覚めても その“道”のことを思いつづけている。犠牲を伴うだろう。
でも、犠牲になるものに すまないと手を合わせながらも、その“道”を優先し続ける。
辛いことである。
そして 『この道より我を生かす道なし この道を歩く』 という心境に至るのだろう。

このごろ思うことがある。

だいぶ前に観た映画 『ビッグフィッシュ』 を思い出す。
年老いた釣り師のほら話 「フィッシュストーリー」 をもじって、見たくても見られず捕まえたくても捕まえられない幻の大魚は、実は自分の心の中にこそある という話だ。

この映画の主人公が辿り着いた “スペクター”という町に、たった3行の詩しか書かない ウィンズローという詩人が住んでいる。
どんな詩だったか忘れたが、3行しか書けないと悩んでいるわけでもなく たった3行の詩を 楽しそうにくり返しているのだ。
あれこれ人生を勿体付けたいものだが、結局のところ 人生なんてまるでおとぎ話。
たった3行で十分というのだ。

人生が単なるおとぎ話に過ぎないにせよ、生きているということ自体がビッグフィッシュであるにせよ、そのビッグフィッシュを手にするための餌に、どれほど なけなしの自分を提供できるか、そこが問題なのだと、私は思う。
もし、人を感動させるものがあるとするならば、自分自身の生き様以外にはない。これは大事だぞ大事だぞ、 と 声荒げて言ってきたことなんて、あの詩人ウィンズローに言わせれば 『たいしたこっちゃない』。
それでも、一流にこだわって はかなく消える ビッグフィッシュの航跡でいいのだ。

退職した同期の仲間と酒を飲み交わしながら、そう このごろ つくづく思う。


この前の日曜日、祇園甲部歌舞練場で開催された「京の会 舞踊公演」を観る機会をいただいた。
京都を中心に活躍する 日本舞踊の家元が番組を構成する、超一流の舞の会である。
日本舞踊に関して ずぶの素人の私も、のっけから引き込まれて 時間の経つのも忘れるほどであった。

一流も超がつくものは、やはり何かが違うのであろう。
相手が その“道”の素人であろうと、観るものの心を捉えて離さない力がある。

酒を飲んで紛らわす 「一流もどき」 は、やはり所詮 ほんものでないのだろう。
それもまた いいじゃないかとも思う。
「超一流」を 曲がりなりにも理解できる 「一流もどき」なら、と。