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たねやの心

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いま 世は、エネルギー問題で もちきりです。
いいチャンスと思います。
いままで ぼくたちは、あまりにもエネルギーの恩恵に無頓着すぎました。

福島第一原発事故は、代償のおおきなおおきな教材です。
これを無にしたら、それこそ ‘日本沈没’です。
いまこそ エネルギーに対して、生活スタイルを含めて 根本から考え直さないといけないときです。

ただ、エネルギー問題が大きくクローズアップされて、もう一つの大きな課題が、置き去りにされている気がします。
考え直さないといけない もう一つの課題とは、食料問題です。

休耕田を有効利用せよ とか、農業就労者の年齢層を下げる施策を講じよ とか、これまでも言われ続けてきました。
そういう、食料自給率を含め 食料資源的な問題は、もちろん 議論をつくさなければなりません。
ぼくがつねづね考え直さないといけないと感じている食料問題とは、食べものに対する人間としての姿勢です。


近江八幡を拠点として 躍進を続ける菓子舗 “たねや”グループを率いる 山本徳次氏が、ステキな本を著されています。
『たねやの心』(毎日新聞社刊)という単行本です。
山本氏は、和菓子づくりを通じて、近江商人のセンスで、‘食’に真剣勝負を挑んでいます。

この本には、‘食’に関わる仕事に携わるものとして、一人の消費者として、いや いち人間として、膝を打ちたくなること、耳の痛いこと、目指すべき灯り…が詰まっています。
山本徳次という人間の、魅力に溢れています。

ぼくが ‘食’に関してつねづね感じているのに うまく言い表せないことを、山本氏はこの本の中で、的確に表現されています。
ほんとうに感じ考えた人の言葉は、重みが違います。
‘食’に真剣に取り組んでこられたからこそ、あふれ出る言葉です。


思わず膝を打った言葉を、引用させてもらいます。


 (相次いだ食品偽装不祥事を歎いて…)
 ズバリ、商売人が正直さを失うてしもてる。
 商いをやっていく過程で、してはならん、というハードルが低くなってしもたんや。
 ましてや、人さまの命をあずかっているに等しい食品を扱う商売人が、まあとんでもないことや。
 普通なら自責の念で夜も眠れんようなことを臆面もなくやってのけるんやからな。
 (中略)
 消費者はもう商売人を信じてない。
 信じているのは商品の前にあるポップ(標識)だけや。
 ○○産とか△△産とかいう表示を信じているだけや。
 それによって商品そのものはある程度信じていても、もはや商売人という 「人」を信じてないということや。
 これは人と人との対話が ポップひとつで さえぎられているということやないやろか。
 寂しい話やな、考えてみると。
 それでのうても、生産者と消費者との距離が遠いのに、そこに壁までできてしもうてるんやからな。
 食というのは人間が生きていく上で、もっとも重要な要素や。
 その最前線でこんなありさまというのは ほんまに淋しいわな。
 ということは一歩踏み込んで頭をめぐらせてみると、何やら社会全体が淋しいなっていってるんやないやろ
 か、とさえ思えてくるんや。

 (「消費期限」より大切なのは自分の舌で安全を確認する能力、との一文から)
 ちょっと横道にそれることになるやもしれんが、シール越しの売り買いでは、まあその食の責任は生産者や
 加工業者、すなわち売り手ということになる。
 それはそれでええとしても、食というのはまず自分の舌を信じるところから始まるんやないかと思うのや。
 本来そなわっている人間の感覚的能力やな。
 昔は、いや、つい最近まではそういう食の期限もすべて最終的には、消費者である各個人が半ばは判断
 してたもんや。
 戦後まもなくの食糧難の時代に、ご飯が少しねばっこく、汗くさいというか、関西弁で 「いたんでる」と言う
 てたが、腐り始めたものを一度お湯で洗ってから食べさせられたもんや。
 まだこれはお湯で洗えば食べられるという 繊細で微妙な判断をする生理的能力が健在やったということや
 ないやろか。
 何かにつけて 「食」という最も大切な行為には いつの時代でも多少なりとも危険な要素がつきまとって
 いたに違いなく、ならばその危険を避ける、あるいは予防する味の感覚がそなわっていたはずや。
 安全、安心ということを最近つとに言われるのやが、それはそれで結構なこととしても、こういうことは
 食べる本人というか、食べる主体が最も気をつけんとあかんことやないかと思うのや。


節電を余儀なくされて初めて エネルギーの無駄遣いに気づくように、ぼくたち現代人は もう一度あの這いずりまわるような飢餓感を経験しないと、飽食の愚を悟れないのかも知れません。

同時に、エネルギー生産者の奢りと怠慢が 福島原発事故を経験しないと ぼくたちに見えてこなかったと同じように、食品偽装不祥事件が発覚して初めて 一部心ない食品製造者の自覚を促せたのかも知れません。

飽食とは、贅沢な食品を摂取することにとどまりません。
その陰で、十分人間の栄養源になる姿のままで、食品がどんどん捨てられているのです。


エネルギー問題と同じく 食料問題は、それを作り出す仕組みを、根本から見直すときが来ました。
同時に ぼくたちの生活そのものも問われていることを、忘れてはなりません。

『たねやの心』を読んで、このことを改めて考えさせられました。