YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
萩反射炉

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



玉鋼(たまはがね)。
いい名前です。
‘玉のように秀でた鋼’という意味合いでしょう。
これから 日本刀が作られます。


玉鋼は、たたら吹き(ケラ押し法)という 日本の伝統的な製鉄法(直接製鋼法)で得られる、貴重な鋼です。
玉鋼を1トン得るのに、砂鉄13トン 木炭同じく13トンを要し、粘土でつくった 使い捨ての炉で作られます。

炉壁の触媒効果で 砂鉄から不純物が取り除かれ、約3トンのケラ(鉧)が得られます。
ケラには、炭素量を多く含んだ 「銑」、炭素量の少ない 「鉄」、炭素量が 「銑」と 「鉄」の中間の 「鋼」が含まれています。
1トンの玉鋼を粉砕選別した残りのケラは、そのまま鋳鉄材料にも使われますが、多くは 鍛造場(大鍛冶場)へ運ばれます。

大鍛冶場で鍛錬されたケラは、脱炭されて 軟らかいが粘り強い 「錬鉄」となります。
これを庖丁鉄といい、刀工は これを日本刀の心鉄として、玉鋼のもろさを補うのです。


たたら吹きは、三日三晩 ぶっ通しの 過酷な作業です。
砂鉄を溶かすに十分な熱を得るためには 大量の木炭が必要で、炭づくりのために 山をハゲ山にするほどでした。
なによりも、良質の砂鉄が勝負です。
この砂鉄を 川や山や浜から採取する作業も また、たいへんな重労働です。

古くから 奥出雲の地は、良質な砂鉄 「真砂(まさ)」が得られました。
ヤマタノオロチ伝説は、この地に古くから製鉄がおこなわれていた証しです。
この伝説は、製鉄作業の過酷さを物語ると同時に、製鉄による自然破壊を暗示しています。


鋼を追い続けると、興味が尽きません。

鋼とは、学生時代を含めれば、45年の ‘つきあい’になります。
でも ここ数年が、気分的にですが、もっとも濃いつきあいです。
学問や仕事の対象ではない ‘はがね’が、おもしろくなってきたのです。


この春、山口県萩市を訪れました。
目的は別にあったのですが、せっかく来たのだからと、反射炉遺跡を尋ねました。





1853年、アメリカ蒸気船四隻が浦賀港に現れます。
日本の近代史を 大きく揺さぶった黒船事件。
当時の日本人の喧騒ぶりと恐怖感が、半分おかしく半分かなしく、想像できます。

ペリーが日本を目指したのは、日本近海での捕鯨、とりわけマッコウクジラを大量に捕獲する上で 捕鯨船の水や食料の補給基地として、日本列島が最適だったからです。
石油精製技術の未熟だった当時のアメリカでは、鯨油が生活必需品だったのです。

ペリーが浦賀に現れる以前から、海の交通の要所を抱える長州藩は、欧州列強の外圧を強烈に感じていました。
アヘン戦争における欧州列強の圧倒的な軍事技術力の情報も、伝わっていたことでしょう。
強力な大砲と軍艦をつくって、海の守りを固める必要に迫られていたのです。

ことに大砲は、海防のかなめでした。
砲弾を遠くに飛ばせるに耐えうるものが、緊急に必要でした。
ところが 長州藩が保有する大砲は、ほとんどが青銅製で、鋳鉄製はごくわずかです。

近代以前の金属精錬の難易度は、一にも二にも 融点です。
青銅の融点は875℃、鋳鉄は1200℃前後、鋼になると それより300℃ほど上がります。
在来の製鉄法では、鋼どころか 大量の鋳鉄をつくることができなかったのです。

青銅砲や鋳鉄砲では、大きな火薬爆発力に耐えられません。
破裂をおそれて、少量の火薬しか使えません。
沖遠くに迫ってくる外国船をねらって発射した砲弾は、情けなくも はるか手前で海中に沈んでしまいます。

この悔しさが、青銅や鋳鉄よりも もっと強靭な鋼をつくる設備・反射炉の建設へと、長州人を駆り立てます。

と まぁ、萩反射炉がつくられたころの長州人の気持ちに、空想半分で なってみました。


ところで、反射炉は、当時すでに 旧式の製鋼設備となりつつありました。
製鉄産業の先進国であったイギリスやドイツでは、平炉や転炉が 製錬炉の主流になる直前でした。
反射炉は、脱炭製錬効果を有していたものの、青銅や鋳造用の銑鉄を溶かすのが そのおもな役目となりつつあったのです。
しかし 旧式だったとはいえ、鎖国状態の日本で 反射炉がつくられたのは、驚異に近いことです。

日本最初の反射炉は、当時 唯一開港の長崎を警備していた佐賀藩で つくられました。
そして 国内で初めて、鉄の大砲の鋳造に成功しました。
1851年のことです。
南蛮渡来の技術書一冊からの出発でした。
残念なことに、佐賀藩の築いた反射炉は、いま残っていません。

佐賀藩に次いで、薩摩藩、伊豆代官所(幕府)、水戸藩と続きます。
伊豆韮山には、当時の反射炉が残っています。

先生格は 佐賀藩で、大砲づくりでは 終始先頭に立っていました。
どこの反射炉も、試行錯誤の連続でした。
資料によると、実際に鋳鉄砲がつくられた反射炉は、佐賀藩だけとのこと。
江戸品川の台場に据わった大砲は、佐賀藩の反射炉で作られたもののようです。


萩反射炉は、実用にはいたりませんでした。
失敗作、とは言いきれません。
試験炉、だったと言うべきでしょう。
萩反射炉には、謎が多いのです。

萩反射炉が試験炉で終わった訳に、興味を抱きました。
ものづくり屋の習性みたいなものです。

萩反射炉をつくるため 佐賀藩に教えを乞うても、当然ながら、なかなか教えてくれません。

まず原料です。
佐賀藩は、どうも 最初は、出雲産の砂鉄銑(和銑)を原料としていたようですが、うまくいかなかった。
その理由は当時の和銑は、嵩上げのため 往々にして、生の砂鉄が銑鉄に混ざっていたためらしい。
そこで 長崎に入港する外国船がバラストとして積んでいた重し鉄を使ったら、巣のほとんど無い鉄製錬ができたらしい。
ところが 長州藩では、この輸入銑鉄(洋鉄)の入手は、きわめて困難でした。

つぎに燃料です。
佐賀藩は 最初、木炭を使っていたらしい。
ところが 所用の高温が得られないので、石炭に切り替えたらしい。
佐賀藩には、豊かな炭鉱を擁する筑豊が控えている。
良質の石炭だから いい、というわけでもないらしい。
高温個所の偏在は 製錬反応のムラを招き、脱炭が進んだ個所は融点が上がって 湯流れを悪くします。
高い熱量をコントロールする技術が要るよう。
こういうノウハウは ことに、佐賀藩が教えるはずもありません。

さらに 大きな問題は、中ぐり加工設備(平錐台)です。
砲弾の通り道である砲身を、真円に加工しなければなりません。
当時 平錐台は、もちろん外国製の、超高価品です。
莫大な経費が要ります。
「一諸候(大名)にして、これほどの規模の大軍需工場を起こすのに必要な費用をまかなうことは、とうていできない」と悟ったのでしょう。

これが、萩反射炉が試験炉に終わった訳なのです。


ちょっと無理な旅程だったので、萩反射炉遺跡を訪ねたときは もう、夕ぐれ近くになっていました。
そのうえ 午後からの雨が、急に激しさを増していました。
家内を遺跡入口に残して ひとり、小高い遺跡の丘をのぼりました。





萩反射炉は、たとえ試験用設備で終わったとしても、幕末という激動の時代に、萩、ひいては日本を、欧米列強の脅威から守るために、この地の技術者たちが懸命に試行錯誤した証しであることに、間違いはありません。

人けのない 雨脚に煙った萩反射炉遺跡に向って、じわーっとこみあげるものがありました。
あぁ 「つわものどもが夢のあと」だと。