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風しもの村

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しわくちゃの白ロシア婆さんたち13人が、立ったり坐ったり 思い思いの姿で、こちらの遠い後ろの方を 見つめています。
大判横長の和紙に 無彩色で描かれた、画家・貝原浩さんのチェルノブイリ・スケッチ絵巻のひとつ。

どの婆さんの顔も、明るくはなく 少々おっかないですが、決して絶望していません。
眼差しは みな、「生きているでぇ」と叫んでいるように見えます。
ポンと肩を叩かれて、いまにもハグされそうな…

この絵の前に、足がすくんだようになって、立っていました。


毎週のことですが、日曜日の午後、御池通りから本能寺境内を通り抜けて 寺町通りを三条の方へ歩いていました。
先月末の朝日新聞地方版で、貝原浩さんの 「反原発」作品展の記事を チラ読みしていたのが良かった、「風しもの村」遺作展を催している小ギャラリーへ、すーっと入っていけました。

この絵に描かれているのは、いまの福島原発とおんなじじゃないか。
どうして もっと早く、貝原さんのこの絵巻に会わなかったのか。
3.11以後でなきゃ、いくらチャンスがあったって 素通りしていたに違いない、とも思います。
いや いまだって、たまたま通りかかったから 立ち寄っただけじゃないか。


チェルノブイリ原発事故が起きたのは、ソ連崩壊の5年前、1986年のことです。
それから25年、その間、貝原浩さんはじめ JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)や チェルノブイリ医療支援ネットワークなど、多くの人たちが 様々なかたちで、チェルノブイリ原発事故と向き合ってこられました。
彼らは、自然界の生き物たちの命とは相容れない放射性物質の管理など とうていできないことを、活動を通じて感じ 発信していたのです。

この国のトップが、彼らのように もっと真剣に、チェルノブイリ原発事故を検証していたならば、福島原発事故は起こらなかったかもしれない。
いや、自分自身 無頓着そのものでした。


描かずにはおれない、というタッチで 貝原さんは、チェルノブイリの風しもの村・チェチェルスクの農民たち、若者たち、子どもたちを、大きな和紙の上に 墨と水彩で絵巻風に描いています。
一点ずつに添えられた随想は、絵の補足ではなく 絵と一体となって、みる者に訴えかけてきます。

防護服を着て描いたという、チェルノブイリ原発4号炉。
いまだに分厚いコンクリートの壁をつらぬいて、放射性物質が大気にまき散らされているといいます。
なんと冷たい、むなしい石棺でしょう。

この絵に添えられた随想は、こう結ばれていました。


 ありとあらゆる知恵と金をもって、いまの状態から抜け出ねば、私達の享受する一切の文化文明生活
 なんぞ、一体何になろうか。
 次代がまだあると考えるなら、原発の起こした惨事が決して他人事でなく、まさしく日常に隣り合わせに
 ひそむ 私達共通の悲劇です。
 毒にも薬にもならないオリンピックのメダルなぞに声をからすな。
 知恵を出せ!
 人を出せ!
 「ガンバレ!!ニッポン」