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活字崇拝のメールべた

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高校の頃まで 自分の書いた文章が活字になるなどということは 夢のような話であった。
卒業文集ですらガリ版印刷であって それでもガリ版刷りで仕上がった自分の文章は なんとなく認知を受けた立派な文章に思えたものである。

大学で卒業論文が活字化されたときの悦びは 今でも鮮明に覚えている。
実際の内容はいかであれ その体裁の良さに得意げであった。
ああ、自分もいっぱしの研究者になれた などと 錯覚したものである。
それほど私にとって “活字になる”ということは 崇高な出来事であった。

仕事柄 メールを受ける機会が多い。メールでの返信も打たざるを得ない。
添付資料で さまざまな情報 (それも即 自分の情報に化ける情報)をいただき また送れるのだから 便利この上ない。
かなり怖いことでもあるが・・・。

ただ チャットのようなメールは苦手である。
電話での話し言葉みたいなダラダラ文が字ヅラになったものは 読む気も起こらない。
ついでのグループ送信など律儀に返事を出すこともないのだが 出すとしても どう返信したらよいものか困ってしまう。
メールといえども活字の印象をぬぐえないので 一つ一つ言葉を選んで綴っていく。
手紙に対するのとほとんど同じ姿勢なのだから これじゃあ相手もしんどいだろうと思う。
メールべた なのである。
だから メル友はいない。

活字なら 何でも尊いなどと考えているわけではない。
自分なりの好みがあって 端的にいうなら ちょっと古いが 小林秀雄の「考えるヒント」のような文章が 活字で目に入ったとき もうたまらない。すごーいっと思ってしまう。
英語は得意でないので聞きかじりなのだが ヘミングウェイの作品が英語活字で目に入ったときも 同じような感動があるらしい。

自分なりに自分の好みの活字を形から分析してみると まずセンテンスが短いこと
そして やたらと漢字やカタカナが多くないこと。
しかし ポイントとなる個所には ぱーっと意味が入ってくる漢字が使われていること
「、」やスペースが適切に 惜しみなく挿入されていること
主語がはっきりしている(実際に表現されていなくても 容易に主語が推測できる)こと
・・・となる。
なんのことはない。ごく平凡な「正しい文章」の特徴にすぎない。

ところが チャット風メールには これらに反する表現が多々見られる。
もっとも不愉快なのは 変換間違いの漢字である。
メールは見直しなどせず ちゃちゃっと送受信するのが特徴なのかもしれないが、変換まちがいを平気で送信してくる送り手の人格まで疑ってしまう。
そう思う自分を 自分でもいやな性格だなと これまた悩んでしまう。

やはり メールには不向きなタイプなのだろう。

活字崇拝のメールべた なのである。