母 |
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60を過ぎた爺さんが 母親恋しくて泣くとは、我ながらお恥ずかしい限りです。
もうすぐ3歳になる男の子の孫が、私の娘である母親にしかられています。
1歳と1ヶ月の妹が 自分のトミカ・カーで、 母親と遊んでいるのを見て、下の子をひっぱたいたのです。
母親に 謝りなさいと責められています。
男の子は母親をぎゅっと睨んで 黙っています。目に 今にもこぼれそうな涙をいっぱいためて・・・
おかあちゃん、そうやない。おかあちゃん、そうやない。
母親が自分の娘であることも忘れて、私は孫と一緒になって母恋しと泣いていました。
世の中の人間が みんないじわるでも、母親だけは自分をかばってくれる、判ってくれる、そう思いたいのです。
三つ子にとって 母はすべてです。
母に捨てられるなど、どうして考えられましょう。
まして、母が自分を殺すなどと・・・
むかしも 母が三つ子を捨てる事件は、ずいぶんありました。
でも、理不尽でも 気の毒になあと、母親を哀れむ理由のある事件が多かったような気がします。
いま、耳を疑いたくなるような事件は あとを絶ちません。
世も末か と言いたくなることばかりです。
そんな訳のわからぬ事件のなかでも どうしても許せないのが 三つ子(3歳児ということでなく物心ついた年頃から自分ひとりで生きていくことのできない年齢の子)を虐待死させる母親の事件です。
捨てるならまだしも、虐めて殺してしまうのです。
母が鬼なら、三つ子はどうすればいいのでしょうか。
死に至る間際、三つ子はなにを救いにすればいいのでしょう。
握る手もない 絶望としか言いようのない、なんと哀れな死でしょう。
カルカッタの路上で誰に看取られることもなく死を迎えた者も、マザーテレサに導かれて「死を待つ人の家」で 安らかに眼を閉じることができました。
抱きしめてくれるはずの母に見捨てられたこの子らは、一体何に縋ればよかったのでしょう。
いまの時代に子供を育てる母親がどんなに大変かは、理解できます。
ちょっとのあいだでも子供たちを見ていてくれる親しい人が近くにいてくれたら、母親はどんなに助かることか。
私たちが幼児期を過ごした時代も、私たちが幼かった子供たちを育てた時代も、まわりに手を貸してくれる親切な隣人がいました。
何よりも、おばあちゃんがいてくれました。
そうです。ひょっとしたら、一世代前のおかんたちが この子らを救ってくれる とりあえずのマザーテレサになってくれるかもしれない。
死後の行き場所を、宗教はいろいろと教えてくれます。
でも、私は 死んだらあの世とやらで自分を産んでくれた母の胎内に戻るのだと思います。
だからこそ、還るところを奪ったこの子らの母を、そういう母をこの世に送った境遇を、私は許せないのです。
母は、子にとって観音さまです。老いて子に還るすべてのものにとって、母は観音さまなのです。
昼寝の横で 二人の孫が、康円作の鎌倉仏・善財童子のような あどけない顔で眠っています。
この世のすべての三つ子たちが 大好きな母の愛に包まれて どうか安寧に育ってくれる世の中であらんことを、切に願うばかりです。
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