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碌山美術館

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長野県安曇野に、もう一度尋ねてみたい場所がある。
碌山美術館。
明治時代の彫刻家・荻原守衛の、愛と美に生きた 短い生涯をしのぶ空間である。

美術館をめぐるのは、とても楽しい。
ことに、その地に生まれ その地の人々から愛されている人間にちなんだ美術館には、なんとも言えない ぬくもりと安らぎが感じられる。
碌山美術館は、そういう場所である。

碌山館扉の内側に、「この美術館は29万9千余人の力で生まれたりき」と記されている。
県下の小中学生の寄付金を含め、多くの地元民の熱意によって誕生した美術館である。
地元学校の生徒さんや先生が、広い館内敷地に 四季折々の草花を植え、それを管理しているという。
廃材の枕木を使って建てられた 校倉造りのショップハウスは、地元のボランティアの人たちの手になるものである。

かように、安曇野に生まれた彫刻家・荻原守衛は、地元の人々の誇りなのだ。





裸婦像に接するとき、こそばいような気恥しさが伴う。
人目が気になって、じっと眺めていられないのが常である。
それが、碌山館にある裸婦像「女」の前では 釘付けにあったように長い間、突っ立ったままであった。
碌山こと荻原守衛の、30年の短い生涯の 最後の作品である。

近代日本の彫刻に造詣のきわめて浅いぼくにとって、明治の世に こんなに秀でた彫刻家がいたことは 大きな驚きであり、ワクワクするほどうれしい出あいであった。

裸婦像「女」から受けた衝撃を、うまく言葉に表せない。
同館の解説書に書かれた表現が、かろうじてこの衝撃を言い表しているように思えるので、紹介したい。

---両手を後ろで結んでひざまずき、顔は上に向けられて目を閉じ、唇はゆるく開かれています。
自然な姿としては、これ以上は無理といっていい苦しいポーズです。
苦しいけれど安定し、すっきりしています。
両ひざが たがいにくいこむような足もとから、ラセン状の動きが上へと続き、天井へ突きぬけています。
そして人体のもつふくらみとすぼまり、光と影の繰り返しが 作品にリズムを与えています。
そういう仕組みが 作品を生き生きと感じさせるのです。
 それにしても、この「女」の姿は なんとけなげで美しいことでしょう。
あの「絶望」にうちひしがれて倒れふした女は、苦しみ、歎き、悲しみながら、ついに起きあがったのです。
希望を求め、自分のこだわりをのり越えようと 精いっぱい体を起こしたとき、苦悩は喜びに変わり、「女」は輝いたのです。
この輝きこそ、解き放たれた自由な精神の姿であり、ほんものの美しさというものなのです。
この美しさが人びとに感動を与える時、美は愛となり、命もまた よみがえるのです。---

この解説には、少し注釈が必要である。

「絶望」とあるのは、作品「女」を完成する1年前の、つまり亡くなる前年の明治42年に、文展に出品して落選した「デスペア」と題した裸体像である。
裸の女性が髪を振り乱して伏せたポーズが 不謹慎という理由から、落選となったそうである。
当時の日本では、完全な裸体像の展覧会への出品は、まだ認められる時代ではなかったのである。

「デスペア」も、この「女」も、その姿かたちは、守衛が心から愛したひと、郷里の先輩である 新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵の妻、相馬良(通称、黒光)を模したものであろう。
ともに女性の姿であるにもかかわらず、これらの肉体の迫力は、やはり 碌山の絶望と希望そのものが生み出した 迫力であった。

さらに注記しなければならないことは、先輩の妻を愛したといっても、その愛は「博愛」に近い愛であったろう。
その証拠に、守衛は誰からも慕われ愛されていた。
守衛自身が、誰をも敬い愛したからに他ならない。

荻原守衛という、明治の世に懸命に生きた薄命の芸術家の人となりを見聞するにつけ、裸婦像「女」に込められた守衛の愛を、ひしひしと感じるのである。
それは、碌山館正面砂岩に刻まれた言葉『LOVE IS ART, STRUGGLE IS BEAUTY』そのものである。
「愛は芸術なり、相克は美なり」。
生きる意味を、生きる目的を見いだすべく、美を追い求め、その最終到達点が愛であることに気づいた守衛を、人々はいまも慕い、ことに地元の人たちは彼を心から愛し、そしてぼくも強く惹かれる。

碌山館は、小さな教会風の建物である。
守衛の精神にみられる西洋のキリスト教への関心を生かしたものである。
尖塔内には碌山の鐘があり、いまでも時を告げている。
その先には、鋭い姿の不死鳥が飛んでいるはずだ。

もう一度、碌山美術館を尋ねてみたい。
そして、あの「女」に会ってみたい。


安曇野は もう、深い深い秋であろう。