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一命

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奈良東大寺法華堂(三月堂)が、奈良時代の建築や仏像彫刻の基準点であることが、このたびの八角須弥壇の修理で確認された。
木材の高度な年輪調査技術によって、須弥壇部材の一本が 729年伐採のものと判明したからである。
仏教に深く帰依した聖武天皇と光明皇后が、皇太子(基王(もといおう))を幼くして失くした翌年である。


おとといの朝日新聞に、仏像を取り除いた この八角須弥壇修理の様子が、詳しく掲載されていた。
修理前にこの須弥壇に安置されていた仏像は、本尊の不空羂索観音、脇侍の日光・月光菩薩、そして北面に厨子内安置の秘仏・執金剛神であった。

ところが創建当時には これらに加えて、戒壇院にある天平彫刻の傑作、四天王像もこの壇に載っていた、というニュースである。

まして、北面に厨子内安置されていた秘仏・執金剛神は、厨子なしであったというではないか。
仏像ファンにとっては、まさに垂涎の共演である。


ところで この執金剛神像は、毎年12月16日の開山忌にのみ開扉される秘仏である。
ぼくは、一度もこの霊像を拝したことがない。
たぶん今年も、修理のために、良弁僧正開山忌にも拝せないであろう。

この執金剛神は、写真で見る限り、戒壇院四天王像の増長天に似ている。
しかしもっと怒っている。
悲しい怒りである。
全身で泣いている。

この忿怒の相を、映画 「一命」の中の、市川海老蔵演じる廃藩浪人・津雲半四郎に見た。
悲しい怒りを、見事に演じている。
まるで、三月堂の執金剛神の怒りを見るようであった。

原作のしっかりした映画には、スキがない。
脚本、監督、そして演じる役者たちの、映画をつらぬく筋の通った一本の強い思いは、観るものに身震いを伴う感動を与えるものである。

時代劇という手段を使って、現代の闇に対する忿怒を訴えている。
狂言切腹という、現代社会ではあり得ない事態を題材にして、現代の闇に切りつけている。

瑛太もいい。
瑛太演じる千々岩求女の、5分に及ぶ壮絶な竹光切腹シーンは、むごたらしさを通り越して 求女の無念が、自分のことのように胸を刺した。

満島ひかりの時代劇姿に ちょっと心配していたが、ぜんぜん違和感はなかった。
ただただ 愛する者に縋って信じて “いま”を生きるしかない美穂の役を、期待通りの いや期待以上に演じてくれていた。

津雲半四郎や千々岩求女と対峙する、井伊家家老・斎藤勘解由役の、役所広司。
たぶん関ヶ原合戦での深傷が原因であろう跛をひいて、ほとんど坐り芝居で、“許せぬ”正論をつらぬく役どころを 人間的に演じていた。
移りゆく時代を武士道の一念で負う 権力の象徴としての斎藤勘解由を、どうしても徹底的に憎むことができない。
そう思わせる正論者を、実にうまく表現している。
役所広司ならではの、斎藤勘解由である。

映画ファンにとって、まさに垂涎の共演であった。


いま、不思議な感覚に浸っている。
執金剛神の忿怒の相が、津雲半四郎の忿怒の相が、たまらなく懐かしいのである。
20歳代はじめ、ぼくたちは いつも怒っていたように思う。
理不尽な権力に向って、激しく叫んでいたように思う。

それがいつしか、おとなしい日本人になってしまった。
ことに 若い人たちが、公憤している場面に出くわさなくなった。
一命を賭して 憤っている姿を見なくなって、久しい。
いい世の中になったから、だろうか。


真剣勝負の刃を交わしたことのない 太平の侍たちが居並ぶ白洲で、津雲半四郎は、絞り出すように こう叫ぶ。

「そこもとらも ちょっとした運命の差で、千々岩求女と同じ境遇になっていたやも知れぬ。そのことに思いをいたす御仁が、ここにはひと方も おいでではなかったのか」

ズタズタに切つけられた津雲半四郎が 薄れゆく意識の中で思い出す場面は、求女や美穂とともに 初孫の誕生を祝った頃であった。
あたりまえの、ささやかな幸せであった。

忘れられないシーンがある。

廃寺の我が家にムクロとなって担ぎ込まれた求女の 血だらけの手のひらから、美穂は、竹光の大きなとげを 一本一本抜き取ってゆく。
求女の懐から取り出した包みの中の菓子を、求女が死を賭して妻子のために懐に入れた菓子を、美穂は、亡骸となった我が子の口に含ませたあと、無理にも食べ干す。
それが、夫への せめてもの礼であった。
そして、求女の血糊の付いた竹光、折れて鋭利な刃先となった切腹竹光で、美穂は、自害する。
幼いわが子の亡骸を挟んで、ムクロの夫と川の字になって。

ぼくは、不謹慎にも美しいと思った。
とてもか弱い人間が、ただひたすら家族を信じて、愛して、そのことだけを考えて生き通した。
憐れではあるが、安らぎを感じた。
憐れの極致に咲いた、一輪のコスモスのように思えた。


忿怒は、要らないのかも知れない。