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しゃべれども しゃべれども

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読み書きソロバン、そこに 「しゃべり」 は入っていない。なぜだろう。
むかしは 「しゃべり」 は日常茶飯事であって、 「学問=学ぶこと」 とは考えられなかったからだろう。

コミュニケーション重視の今、 「しゃべり」 の重要性は ますます高まっているかにみえる。
巷には、「話し方教室」なるものが盛んに催されている。
ちゃんとしゃべりたい、そう思っている人がたくさんいる証拠である。

私も、「・・・教室」 に通うところまではいかなくても ちゃんとしゃべりたいと思っているひとりだが、“ちゃんと” の意味がぼやけているのも事実だ。

「しゃべり」 には、基本的に相手が要る。
つまり、人と人との関わりの上に成り立っている。
その関わり度は、読み書きソロバンを はるかに上回っている。
したがって、「しゃべり」は「読み書き」よりも ずっとコミュニケーションを滑らかにする道具のはずである。
ところが・・・。

しゃべれどもしゃべれども、“想い”が伝わらないことだってある。
いや、不器用な人間のおしゃべりは、しゃべればしゃべるほど、“想い”が 逆の方へ行ってしまう。
ごまかしのおしゃべりになってしまって、とても円滑なコミュニケーションの道具にはならない。

このあたりの機徴を 見事に描いた映画が登場した。

映画 『しゃべれども しゃべれども』 を観た。
京都シネマ、京都女子大学学生落語クラブの一員・女御亭(おなごてい)木屋町さんの実演前座付きで。

主人公の今昔亭三つ葉役の TOKIOのメンバー 国分太一君が、とてもいい。
まっすぐな、でも あったかい感じです。
落語を自分風に ここまでこなすとは、見上げました。
ますます彼のファンになった。

原作は、 『一瞬の風になれ』 の佐藤多佳子。
監督は 『愛を乞うひと』 の平山秀幸。
主人公の師匠役に、伊藤四郎。主人公のおばあちゃん役に、八千草薫。

しゃべっても しゃべっても 気持ちが伝わらないで悩む噺家の三つ葉。
この三つ葉のもとに 「しゃべり」 を習いたくて 三人の “変人” がやってくる・・・と、 まあ、内容は観てのお楽しみです。

平山監督が言う 「単なる横丁のちっちゃな話」 「ステテコのままでいい、ネクタイしなくていいような話」 なんだけど、それだから余計 ずしっとくる。身近すぎるからかな・・・。
深刻ぶってるようで単純で、深かったり浅かったり。

平山監督が、落語という 日本特有の 「しゃべり」 の世界を借りて、私たちの しゃべる日常本音を表現すると、こういう楽しい映画になるのだろう。
「しゃべり」 は人と人との関わりの上に成り立っているから、つい しゃべれば通じると思うことが間違いで、大事なのは「しゃべり」 ではなくて 人と人との “想い” の通い合い、その通い合いから 自分が変化し成長する・・・そのへんのことを、東京の下町現風景を背景に 語りかけてくれる映画だ。

言い方が下手糞だけど、どうしても観なきゃ損しますよ なんて言わなくていいところが、 この映画の一番いいところかな。
でも、お勧めですよ。