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京都会館への思い

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京都でいちばん好きなスポットは? と問われれば、躊躇なく わたしは 「岡崎公園周辺」と答える。
その理由はあり過ぎるが、わたしの場合は 一言でいうなら 「若き日の思いでの地」ということになる。
多くの京都を愛する人々にとって、この地域は かけがえのない場所だと思う。


数少ない 幼いころの記憶に、いまは美術館別館となっている建物の玄関前広場がある。

京都会館中庭の奥に追いやられているが、記憶では 広々とした空間に建造物 “美術館別館”だけが点在していた。
当時は、“岡崎公会堂”と呼ばれていたらしい。
この建物の前の広場には、背と鼻の高い 独特の匂いのする外国の兵隊さんがたくさんいて、どこか違う国のようであった。
“岡崎公会堂”を含む広大な岡崎公園周辺は、GHQに接収されていたのだ と、後に知った。

その玄関の階段に、GIときれいな日本女性が坐ってキッスをしていた。
強烈な印象の記憶である。

不快という感情とも違う。
建造物 “美術館別館”に対する冒涜、そんな訳の解らない怒りのような感情であった。
子ども心に 建造物 “美術館別館”は、だいじなだいじな 犯すべからざるシンボルだったのかもしれない。


あれはまだ、小学生の頃だったと思う。
その “美術館別館”が、妙ちくりんな建造物で隠れてしまった。
広々とした空間も、どこかへ消えた。
妙ちくりんな建造物 『京都会館』は、あのとき わたしにとっては間違いなく、邪魔もんだった。

高校生の終わりころ、将来の夢は建築家だった。
京都会館が、あこがれの丹下健三の先生のような建築家の設計だと知って、わたしの中で京都会館が輝きだした。
いい加減なものである。
二条通りから東に向ってよくよく見ると、京都会館は事実、疏水によく似合っている。
まるまるコンクリート肌の懐深い庇が、東山を背景に アンバランスに美しいのだ。
これを設計した前川國男という建築家は すごい人だ と、建築のなにかも判らぬままに、京都会館のファンになってしまった。

教養部時代は、京都会館の平安神宮道を隔てて東側にあった屋外バレーコートで過ごす時間が長かった。
この ‘ホームコート’からの角度の京都会館も、なかなかの眺めである。

マントヴァーニー、ヘルムートツァハリアス、ビリー・ヴォーン楽団…
二条通りに面した会館事務所の前に並んで、なけなしの小遣いをはたいて これらの演奏会のチケットを買った。
市民落語会、労演、それらの催しがはねたあと、夕ぐれの東山を背に 疏水を渡る時の、一抹のわびしさ…

岡崎公園周辺の風景として、わたしの中で京都会館は もう、切り離しては考えられない存在となっていた。


京都会館が建て替えられるかも…といううわさは、だいぶ前から耳にしていた。
ロームが 50年分の命名権を52億5千万円で買い取った、とも聞いた。
ロームの佐藤研一郎氏は クラシックやオペラに造詣が深いということだから、建て替えにも 彼の趣意が大きく反映されるのでは と、要らぬ心配もした。
京都会館の健全な運営のためには、本来ならば喜ばしいことなのだが…
ただ、スクラップアンドビルドだけは避けてもらいたい、と思っていた。

ことし6月に決まった 「京都会館再整備基本計画」を、息子がネットでコピーしてくれたので、本気で読んでみた。
53ページの本文と6ページの資料から成る基本計画書は、真摯な内容であった。
ちょっと びっくりするくらい、真摯である。

論点はさまざまだが、建築価値継承とホール機能向上の折り合いが、最大の課題だったろう。
わたしのちっぽけな心配など、杞憂だったようだ。
望むらくは、オペラは諦めて、建物の高さを たとえ3メートルでも低くしてほしい。
背景の東山は、岡崎公園周辺の宝物なのだから。


明治政府が東京に移り、天皇がいなくなった京都のさびしさは、想像がつく。
京都を愛する人たちは、疏水をつくり 発電所を建設し 市電を走らせ 平安神宮を造営して、塞いだ気力を奮い立たせた。
日本最初の内国勧業博覧会が開かれたのは、京都の西本願寺であった。
明治28年 ここ岡崎の地で、第四回内国勧業博覧会が開催され、その目玉企画が平安神宮造営であった。

近代京都のシンボルである岡崎公園周辺の地は、京都人の誇りである。
その岡崎の地の象徴となる京都会館へ寄せる期待は、京都人なら等しく抱く思いであろう。

新しく生まれ変わる京都会館が、この岡崎の地にふさわしい建造物であることを、心から願う。