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カレンダーと豆腐

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年末のこの時期になると、来年のカレンダーが気になってきます。
どのカレンダーを どの場所に掛けようか と、クルクル巻くのがうっとうしく感じながら、品定めに 自分の美意識を試しているようなところがあります。

品定めを終え 古いカレンダーと掛け替えながら、向田邦子の随筆 『豆腐』の感覚を反芻しています。
そして、定番のように、『豆腐』から知った 吉屋信子の句が浮かんできます。

  手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦

間違ってはいけないので、このブログを投稿する前に、『豆腐』を読み返しました。
出だしは、こうです。


  古いカレンダーをはずして、新しいものに掛け替える。
  感慨といえるほどご大層なものではないが、やはりご不浄のタオルを取り替えるのとはわけが違う。
  多少しんみりした手つきになって、古いカレンダーをすぐに紙くず籠に叩き込むには忍びなく、
  めくって眺めたりしている。


どうして、カレンダーと豆腐が結びつくのか。
その引きだしのうまさに、向田邦子という作家の感覚に 惚れぼれしてしまいます。

向田さんは、日付けの下が四角いメモになっているカレンダーを使っていました。
この四角の一区切りが、幼いころの記憶、豆腐屋の軒先で見た豆腐一丁と結びつくのです。
大きな水槽に浮かぶ豆腐のかたまりに、豆腐屋のおじさんが包丁を入れる。
白い大きな塊りは、一丁ずつの豆腐に切り分けられて、ふわりと水中に浮かびます。
それが、向田さんの中で 「一日」なのです。


  気ばかり焦ってうまくゆかず、さしたることもなく不本意に一日が終わった日は、
  角のグズグズになった、こわれた豆腐を考えてしまう。
  小さなことでもいい、ひとつでも心に叶うことがあった日は、スウッと包丁の入った、
  角の立った白い塊りを、気持ちのどこかで見ている。


向田さんは 子どもの頃、豆腐が苦手でした。


  色もない、歯ごたえもない、自分の味もない。
  ぐにゃぐにゃしていて、何を考えているのかはっきりしない。
  自分の主張というものがない。
  用心深そうであるが、年寄り臭くて卑怯な感じもする。
  人の世話もやかない代り、余計なことは言わず失点もない。


この手の人間が 嫌いだったのでしょう。
そういう 男気な向田邦子に、魅力を感じます。

その向田さんも、歳を重ねて こう思うようになります。


  若気の至りで色がないと思っていたが、豆腐には色がある。
  形も味も匂いもあるのである。
  崩れそうで崩れない、やわらかな矜持がある。
  味噌にも醤油にも、油にも馴染む器量の大きさがあったのである。


さて ことし一年、ことが多すぎました。
尖った心と心が、悲しい響きをきしませることが、あまりにも多すぎた。
世相に流されまいと 背筋を伸ばせば、後頭部をガツンと梁で打つような、息苦しさです。
その反面、人の心の中に こんな菩薩が住まわっしゃるのか と、人の情けの暖かさに身が震えました。

向田邦子の気づきには 遠く及びませんが、わたしも歳を重ねて 多少考えるところができました。
人間の営みには、ヴィシェヌ神だけでは済まぬ部分がある、シヴァ神ともうまく折り合いをつけていかねばならぬ。
豆腐の器量さが必要なとき、ということなのでしょう。

それでも 向田さんは、随筆 『豆腐』を、前を美しく思い描く気持ちを失わない句で 締めくくっています。
これも、吉屋信子の句です。


  初暦 知らぬ月日は 美しく