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再び、天平の甍

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この前 唐招堤寺を訪ねたのは、平成大修理落慶法要の1年前、平成20年の晩秋でした。
金堂は、まだ一部囲いに覆われて、全容を現わしていませんでした。
あの大屋根を、囲い越しではなく 存分に眺めてみたい、この思いが ことし早々に実りました。





寒さで足元の感覚が鈍くなるくらい長い間、私は唐招堤寺金堂を眺めていました。
正面から、手前東にある茶所の前から、後方の少し高い位置にある食堂跡から…
寄棟のシンプルな屋根の曲線、まことに美しい。
美しいとしか、言いようがありません。
実に日本らしい曲線美。

もとより 唐招堤寺は、来日僧・鑑真の寺です。
金堂は、鑑真の死後 まもなくして完成した、天平時代の建造物です。
作者は、鑑真和上の大徳を慕い、鑑真の寺をつくるということそれ自身に、無上の幸福を感じていたに違いありません。
鑑真が唐から連れてきた工匠の技術でできたとも伝えられていますが、この流れる曲線は 日本人の手に成るものと、私には思えてなりません。
あるいは、来日工匠らが 日本の風土に溶け込んで成ったもの、かも知れません。
いずれにしても、1200年以上も前に、もっとも日本らしい曲線美をもつ建造物が、奈良の地に存在していたのです。
そして いまも、眼前に建っているのです。

ありがたいと思います。


不思議でならないのです。
当時のシナにあって名僧と敬われていた鑑真が、いかに日本から渡った高僧らに請われたとしても、海賊や風波の災いで五度も挫折してもなお 来日を志したのか。
単なるミッション精神だけとは思えません。

天平の世、日本は飢饉や疫病で大混乱していました。
仏教の教えをいただいた当時の日本のリーダーは、必死の思いで 鑑真の来日を請うたに違いありません。
鑑真は、後進国のこの純な請いに、なんとしても手を差し伸べたいと思ったのではないでしょうか。

奈良に残る天平時代の数々の秀でた仏像や建造物に接するにつけ、この時代の精神の高さに圧倒されます。
私たちの祖先が これほどまでに崇高な精神を有していたことに、大きな誇りを感じます。
その崇高な精神を深化する努力を、私たちは怠ってきたのかもしれません。

しかしながら、と考えるのです。
こうして奈良の地に、私たちの祖先は 最も精神性に溢れた天平時代の財産を 形あるものとして、大切に受け継いできたではないか。

かって、唐招堤寺の開山堂に鑑真大和上の坐像を拝した芭蕉は、日本へ渡る途上の辛苦で失明した鑑真の その御像の目から滴る 深い慈しみの涙を見たのです。


   若葉して おん目のしずく ぬぐはばや


唐招堤寺の境内は、厳しい雰囲気のなかにも、暗いイメージはありません。
この寺の伽藍には、日本人の魂の原点が宿っている、そう私には思えるのです。