含羞 |
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時間待ちが、最近あまり苦になりません。
文庫本、それも分厚くなく 字がけっこう大きくて、数ページで読み切りのエッセイ集、これがあれば いくら待たされたっていい。
その本の作者が向田邦子だったら、もっと待たされたい気持ちになることが、しばしばです。
南木佳士作 『阿弥陀堂だより』のなかで、作者自身が大ファンなのでしょう、登場人物に、開高健の命日12月9日に 必ず遺作 『珠玉』を読ませています。
これにならって 向田邦子の命日8月22日に と考えて思いつくのは、「手袋をさがす」かな。
なるだけ 1時間以内で読めそうなのが、いいです。
ならば、「香水」も いいですね。
香水といっても、向田流のユーモアで、「田園の香水」、つまり くみ取りの匂いのことです。
命日に読むには あまりふさわしいとは言えない内容ですが、好奇心旺盛で 日々の暮らしを愛した向田邦子らしいペーソスが、たまらなく恋しくなるエッセイなのです。
「香水」の末尾を、ちょっと引用してみます。
…あの匂いを嗅がなくなって、もう随分になる。
どう考えても、いい匂いではなかった。
時分どきにぶつかったり、気の張る客が来ていたりすると、具合が悪いこともあった。
せいいっぱい気取ったところで、人間なんて、こんなもんじゃないのかい、と思い知らされているようで、百パーセント威張ったり気取ったりしにくいところがあった。
今はそんなことはない。
昔は、あからさまに明るい電気で照らすにしてはきまりの悪い場所だったのが、今は、天下堂々、白一色、その気になればオシメの洗濯も出来ようかという、水洗トイレである。
見たくなければ、そのまま、水に流してしまえる。
他人(ひとさま)に下(しも)のお世話をしていただいているうしろめたさもなく、恐いものなしで大手を振って歩けるのだ。
男にも女にも恥じらいがなくなったのはこの辺が原因かも知れない。
街からあの匂いと汲取屋が消えたのと一緒に 「含羞(がんしゅう)」という二つの文字も消えてしまったのである。
「含羞」という言葉に わたしは、忘れかけた、忘れてはならない 大切なものを感じます。
わたしたちより一回り年長の世代が持っていたもので、わたしたちより一回り年下の世代が失くしてしまったかにみえるもの。
永六輔さんが、以前 新聞のコラムに、こんなことをおっしゃっていました。
下町では目立っちゃいけない。
よく分かっているのは小沢さん(小沢昭一)で、無名になる努力をしていた。
僕もいろいろやったけど、等身大でいられるラジオは続けている。
テレビは大きくみえたり、ゆがんで見えたりするから。
恥ずかしいから。含羞です。
「含羞」という言葉に、日本人の良心みたいなものを感じるのは、わたしが古臭い人間だからなのでしょうか。
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