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小学生的教養

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いま、桜が満開です。

桜はだれからも愛される花ですが、僕はどうも苦手です。
嫌いというのでは、もちろん ありません。
得体の知れない寂しさが、桜から感じられてしまうのです。
桜にあてられる、という感覚でしょうか。

言葉にすると この感情が薄っぺらになってしまうのですが、`ノスタルジーの悲しさ’と言ったらいいのでしょうか。
桜の花が咲き誇るのをみると きまって、小学校の校庭の桜の下に ひとりぼんやりしている自分が浮かんできます。
桜は、小学校という名の 幼いころの断片的な思い出を紡いで、僕を圧倒するのです。


「最後の校舎 最後の卒業式」と題して、半月ほど前の朝刊に載った、岡山県高梁市の市立吹屋(ふきや)小学校の本館校舎玄関前に立つ14名の記念写真。
2012年3月20日に最後の卒業式と閉校式が執り行われた、その記念写真です。
卒業生3名、在校生4名、教職員7名、そして玄関軒下の大きく弧を描く梁…。

吹屋は かって、ベンガラで栄えた地区です。
現役で使用されている日本最古の小学校校舎も これで、遺跡としての吹屋の町並みと同じように、`文化財’の仲間入りとなります。

僕たちは みな、昔こどもでした。
小学生だった。
当たり前のことですが、大人となって久しく、このことを忘れています。

この一枚の写真は、そのことを思い起こさせました。


敬して止まない画家に、安野光雅さんがいます。
『わが友 石頭計算機』という絵本技術書での出会いが、最初です。

津和野を故郷にもつ安野光雅さんは、「故郷とは 自分のこども時代のことではないだろうか」とおっしゃっています。
そう言いきれるほどに、こどものころ、特に小学生時代は、いまの自分のほとんどを育てた思い出が詰まっているのです。


‘小学生的教養’。
安野さんは、岩波書店が出した 旧漢字旧かなづかいで書かれたモーパッサンの復刻本を読んでいて、そこに載っている漢字はみんな 小学校で習った字であることに気づきます。
これをひとつの例えにして 安野さんは、このようなことを小学生的教養とおっしゃっています。

掛け算の九九も 百人一首も、自転車乗りも お手玉も、そして おふくろの味といわれる食べ物にたいする感じ方も、みんなみんなこどものときに身につけたものなのです。


桜の花々から木漏れ射す陽の光に 目を細めさせられながら、小学生だった自分と今の自分の間を考えていました。
僕はいったい、小学生だった自分と今の自分の間で なにをしてきたんだろう。
塩味の年齢になって つくづく、その間の たいしたことのなさを、そしてちょっとうれしく 今の自分が小学生だった自分とあまり変わりがないことに、気づきました。

今の僕にとって、生きるのに 小学生的教養がいちばんたいせつなことに、気づいたのです。