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原発やむなし、と考えている人たちへ

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仕事にかまけて、ブログから遠ざかっていました。
しかし、この世相に生きるものとして、もう 黙ってはいられません。

一つに絞ります。
これが、何にもまして 重要課題だからです。
言うまでもなく、原発問題です。


同じ朝日新聞に期を一にして、作家の池澤夏樹氏と写真家の藤原新也氏が、水俣病とダブらせて 原発問題を突いています。
(池澤夏樹氏記事:7月3日夕刊、藤原新也氏記事:7月4日朝刊)
内容の詳しい紹介は 冗漫になるので省きますが、藤原氏記述の 作家石牟礼道子に関するところだけ、引用します。


 …水俣病発覚後の住民とチッソとの折衡では会社側は居直り、これは 「(心情は介さない)交渉ごとですから」と 事務的発言をした。
 『苦海浄土』の作家石牟礼道子さんが 「それはあんまりじゃありませんか」と問うと、会社は 「これは文学的問題ではない」と切り捨てた。
 加害者側が居直り反攻姿勢に転じるという構図も先の電力会社の株主総会で同じ様相を見せた。…


私が原発反対のブログを掲げたとき、原発問題は 「文学的問題ではない」として、情緒で語ってはいけないとのコメントをいただきました。
そのコメントをいただいた方の主旨は、次のようなものでした。


 原発で使用済みとなった核燃料を自国内で処理する権利の重さを、あなたは理解していない。
 この権利は、若き日の中曾根康弘総理大臣(当時)のもと、屈辱のプラザ合意を受け入れ、急激な円高を容認し、冷戦の只中で日本が米国に協力して西側諸国の一員であることを宣言するなど、様々な犠牲を払って勝ち取ったものである。
 日本の原発ならびに再処理施設は、電力源であると同時に 潜在的な安全保障でもあるのだ。
 つまり、脱原発とは、原子力発電から脱却することだけではなく、戦後の安全保障の枠組みからの脱却でもある。


一経済人のはしくれでもある私は、この方のおっしゃりたいことは 十分理解しているつもりです。
それでも、原発は無くさなくてはいけない、そう確信します。

その理由は、きわめてシンプルです。
地球上の人工的核反応は、人類に幸福をもたらさないことが明白だからです。


あなたの尊敬する永井隆博士も 最後には原子力平和利用を認めたではないか、とのコメントも 別の方からいただきました。
永井博士の名誉のために申し上げておきますが、原爆の悲惨さをなめ尽くした博士だからこそ その贖罪として、原子力が人類の平和のために役立ってほしい、そう願われたのです。
中曾根康弘氏の当時の行動を責められないのと同様に、永井隆博士の切なる希望を責めることはできません。

日本国民ひとりひとり、同じ勘違いをしていたのです。


原発やむなし、と今でも考える人たちに、是非読んでいただきたい書物があります。
東邦出版刊、小出裕章著 『子どもたちに伝えたい---原発が許されない理由』。

巷に溢れている ‘原発反対’の情報には、首をかしげたくなるものも多いのですが、この書物はほんものです。
著者・小出裕章氏が、十二分に信用できる人物だからです。

大学で色分けするのはあまり気が進みませんが、こと原子力に関することでは、京都大学と長崎大学には ほんとうのことを言っている先生が多くおられる、そう私は判断しています。

京都大学は言うまでもなく、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士など 日本の量子物理学を牽引されてきた先人を、多く輩出しています。
同時に、これは学風でもあるのですが、中央におもねない、つまり原子力ムラから距離を置いた学者を育てる基盤を持っています。
その最たる人物が、小出裕章氏です。
大学も原子力ムラの手前、公然と原発反対を唱える研究室を設けることは 憚られたのでしょう。
小出氏は その秀でた頭脳にもかかわらず、長らく講座を持てない助手の立場に甘んじてきました。
それでも大学は、彼を原子炉実験所の原子力基礎工学研究部門に置いて、ある意味 庇護してきたのです。


講釈はさておき、この書物 『子どもたちに伝えたい---原発が許されない理由』を読んでいただければ、地球上での核分裂をコントロールすることのむずかしさ、目に見えない放射能の恐ろしさを理解してもらえると、信じます。

いや、こんな書物に頼るまでもなく、去年3月に起きたあの事故を、あってはならない貴重な経験を、しているではありませんか。
原発反対に、これ以上の証明を必要とするような反論を、私には見いだすことはできません。
これは、単なる情緒で言えることではありません。


「この夏を原発なしでどうなるか検証してみましょう」、そう言ってくれるような 勇気ある総理大臣を選ばねば、この国の未来はありません。
それこそ、命がけで…