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司馬遼太郎

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学生時代、司馬遼太郎を読む友人が多くいた。
『竜馬がゆく』 『坂の上の雲』 など、読後感想に雄弁をふるうのに、少々うるさい気持ちで付き合った。
自分がそれらを読むのが小癪で・・・。
そして、とうとうこの歳まで、司馬遼太郎の 長編小説を一冊も読まずにきてしまった。

司馬遼太郎を読んでみたいと強く思ったのは、NHKテレビの 「街道をゆく」 番組で、モンゴルの壮大な映像をバックに、田村高廣の朗読する 『草原の記』 を聴いてからである。
この人はイケる という、何か稲妻みたいなものが走ったのを覚えている。

ところが、そう簡単に入っていけない。書店で司馬遼太郎の作品を あれこれ手にするのだが、なかなかそれをレジに持ってゆけない。
おかしな話だけれど、もうそろそろ乱読できる年齢ではないことを自覚しているから余計に、司馬遼太郎には 背筋を伸ばし 心して向かわねばならない、そんな気がして、ついつい読むのをあとまわしにしてきた。

文庫本で 『アメリカ素猫』 に出会えたのは、そんなおじおじした自分にとってラッキーだった。
本書の次のような書き出しが、私を気楽な気分で この本をレジへ持っていかせてくれた。


このことは、私なりに決意が要った。新聞社にたのまれたあと、ずいぶん迷った。曲折もしたあげく、結局はゆくことにした。ビジネスマンからみれば笑われるかもしれないが、このことというのは、たかがアメリカへゆくことなのである。


司馬遼太郎の書くモンゴルや明治維新は、もっと明晰な頭のときに対したい。
そんな、訳のわからない理由から、私はこの 『アメリカ素猫』 に入ることができた。

私にとって アメリカは、親しみと 少し軽蔑を含んだコンプレックスのかたまりのような国である。
昭和30年台後半、男の子として一番多感な時期に ハリウッド映画にドボ漬けになっていた。
その心底には、進駐軍のとてつもない引力の記憶(具体的には、ヌガーチョコなのだが)が、二の句もなく存在していた。
こういう言い方は罰当たりだと判っているが、あの まずいユニセフミルクのお情けで育った最後の世代人という負い目が、底抜けにハッピーで豊か極まりない ハリウッド映画に圧倒され 吸い寄せられ 心を奪われてしまったのだと、自分なりに分析している。

まことに失礼な物言いだが、ひょっとすると、22歳も年上の 司馬遼太郎の心のどこかにも 同じようなアメリカコンプレックスが 多少なりともあったのかもしれない。
だとすると、私にとって この 『アメリカ素猫』 は、親しみをもって司馬遼太郎に初対面できる 恰好の作品だったのではないか。

勝手な想像を描いて、私は、司馬遼太郎に近づく切り口を探していた。
そして今、松本清張、五木寛之の作品と並んで、司馬遼太郎は 私にとって もう なくてはならない書物の作者となっている。