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赤い蝋燭と人魚

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恐怖と悲しみと諦めと…
人魚姫は、蝋燭に絵筆をもっていこうとするのですが、彼女を買いに来た香具師(やし)の気配におびえて、表の方を振り向きます。
きっと 絵筆と蝋燭を持った両の手は、恐ろしさで震えているのでしょう。

これは、小川未明の童話 『赤い蝋燭と人魚』を、閨秀画家・いわさきちひろが絵本にした、ワンシーンです。

いわさきちひろの絶筆となったこの絵本を、わたしはとても大切にしています。
絶筆作品だから、というのではありません。
いわさきちひろ という一人の女性画家を、一人の人間として心底 敬愛するきっかけとなったのが、この絵本だからです。

彼女の描いた絵をみて、誰もが愛らしいと感動する。
ことに子どもの絵は、頬ずりしたくなるくらい かわいい。
女性、それも母親でなければ描けない、子どもの心を溢れる愛をもって見つめ抜いた表現だと思います。

ただ かって、わたしの子どもたちが手にしていた ちひろの絵本を、正直わたしは しっかりと見ていなかった。
きれいな絵だな、その程度にしか 認識していませんでした。

2年前です。
孫に適当な絵本を と思い、本屋さんの絵本コーナーで探していたら、『赤い蝋燭と人魚』を見つけました。
むかし 子どもたちが読んでいた ちひろ絵本だと、思いだしたのです。

まず わたしは、見開きに描かれた 空と海に、はっとしました。
押し殺して 今にも荒々しい雷雨が襲ってくるようなどす黒い空、それを それ以上の豪胆さで待ち迎える大海原。
これは ほんとうに、あのかわいげな子どもの絵を描いていた いわさきちひろの絵本なのだろうか。

パラパラとめくったら、冒頭に紹介した人魚の娘の絵に出合ったのです。

走った線画の、未完ともみてとれる人魚姫の姿。
こんな悲しげな感動を、絵で感じ取った記憶がありません。
まことに美しく哀しく、そのつぶらな瞳は、懸命になにかを訴えています。

正直 申します。
この絵本を手に取るまでは、いわさきちひろという童話画家を 左翼党員という理由だけで、あまり好ましく思っていませんでした。

この絵本との出会いをきっかけに、いわさきちひろを もっと知ろうと努めました。
安曇野ちひろ美術館を 尋ねました。
兵庫県立美術館で開催された 「母のまなざし~子どもたちへのメッセージ」という いわさきちひろ展へも出かけました。

それらから、またいわさきちひろに関する書物から、そして何よりも 家内のアドバイスから、わたしも いわさきちひろのファンになったのです。

3.11以降 とくにそう思うようになったのですが、その人の信条のみでもって その人全体を推量するのは、大きな間違いをおこしかねません。
なぜ いわさきちひろが左翼党員にたどり着いたのか、戦争という異常な世情と ちひろの心情を理解しようとすべきだったのです。

またまた原発の話になってしまうのですが、かって わたしがいわさきちひろに抱いていた偏見と同類の感情を、反原発を唱える人たちに抱いている人がいたとするなら、それは大きな不幸です。
ムードで反原発を叫んでいるだけなのか、反原発の意志のほんとうの姿を見誤っては、今を生きる人間として 取り返しのつかない過ちを犯すことになるのです。

話が逸れてしまいました。
絵本 『赤い蝋燭と人魚』に戻ります。

この人魚の娘を育てた 欲深いじいさんばあさんを、ちひろは決して醜い人間に描いていません。
どこにでもいる その時々の喜怒哀楽に右往左往しながら生きる、普通の愛すべき年寄りと 見て取れます。
小川未明の文章を借りれば、小さな漁村の鎮守の森の宮前の 小さな蝋燭屋の老夫婦が 捨て子の人魚姫を拾い上げたとき、「それは、まさしく神様のお授け子だから、だいじに育てなければ罰があたる」と話していたのです。

それが ‘欲に目がくらみ’、香具師に娘を売ろうとするのです。
人間の醜い、けれど真実の一面です。

小川未明の名作を ちひろの絵の力が、不朽のものにしました。
繰り返しになりますが、冒頭に揚げた人魚姫の絵をみて、こんなに美しく哀しい姿を描ける作者を わたしは、直感的に敬愛せずにはおれませんでした。

ドキュメンタリー映画 『いわさきちひろ~27歳の旅立ち』が、近く上映されます。
もっと いわさきちひろを知りたい、だからきっと、この映画を見に行きます。