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遠くて近い国、ロシア

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2010年11月、当時のロシア大統領 メドヴェージェフが、唐突に国後島を訪問した。
北方領土の解決にむかって前向きな姿勢を示していただけに、メドヴェージェフの国後島訪問は不可解に思われた。

あのとき まだ日本の政権が自民党にあり、麻生太郎が首相の地位にいたなら、麻生太郎は自身 国後島を訪れ、メドヴェージェフに面会していたであろうか。
仮定の話を持ち出しても 致し方ないことなのだが、麻生太郎なら ひょっとしたら出かけて行ったかもしれない。

ここで、自民党や麻生太郎の贔屓記事を書くつもりはない。
ただ あのとき、間髪いれずに 日本のトップが、メドヴェージェフに会いに国後島へ行くべきだった、そう言いたいだけである。

国のしなければならない仕事のほとんどは、外交にある。


つい最近まで わたしは、ロシアと言うよりは ソ連のほうが呼びやすかった。
ソ連という国は けしからん国だ、これは、わたしの親の世代の口癖である。
日ソ不可侵条約を破って満州に攻めてきよった、終戦になっても占守島(しゅむしゅとう)を攻撃しよった、シベリア抑留でひどい目にあわされた…
これが、わたしのロシアに対する国家観の基礎にあった。
稚拙な話だが、ソ連は卑怯な国、この思い込みは長い間拭えなかった。

この国家観は、ゴルバチョフという人物の登場で 変化する。
それでも、わたし自身 しっかり知ろうとしないロシアという国は、親しみの薄い隣国のままであった。


ここ10年ほどの間の中国の勢いに、いい知れぬ恐怖を感じる。
南方の領土問題で、中国の勢いと真っ向からぶつかっては危ない。
従来からの米国や韓国とのつながりだけでは、心もとない。
ロシアとのつながりを見直すべきではないか。
これが、日本人の多くが抱いているイメージではないだろうか。

それには、もっとロシアについて知らなければならない。
しかし、わたしには 膨大な日露外交史を読破する力など、もちろんない。
最も尊敬する史家であり、あの 『坂の上の雲』や 『菜の花の沖』の著者である司馬遼太郎に聞くのが、言い方は悪いが手っ取り早いと考えた。
それも なるべく薄い文庫本であってほしかった。
それが、『ロシアについて~北方の原形』(文春文庫)であった。
この中で、わたしは、シベリアが、日露の関係を探るキーワードだと理解した。


ロシアの首都 モスクワは、遠い。
しかし ロシア領であるシベリアは、千島列島のすぐ北向こう カムチャッカを東端とする。
ロシアは、隣国なのだ。

ペリーが黒船を仕立てて浦賀沖に現れたのは、クジラ漁船の水と食料の補給地として、日本が欲しかったからである。
同様にロシアも、パリ貴婦人が大枚をはたいてでも欲しがった テンやラッコの毛皮を求めて、シベリヤやカムチャッカへ向かう狩猟隊の食料補給地として、シベリアの東端に位置する日本と交わりたかったのである。
どちらも 欲の皮から発した外交であるが、幕末の徳川幕府は 押の強い米国に靡いてしまった。

かって ロシアが、日本という、見たこともない国に関心をもったのは、あくまでもシベリアという大きな陸地の維持と開発のためであった。
アジアとヨーロッパにまたがる広大なシベリアは、ロシアにとってお荷物との一面がある。
それを いちばん憂いていたのは、ロシアのノーベル賞作家 ソルジェニツィンだった。

このことは、現代にも通じる。
メドヴェージェフが国後島に現れたのも、シベリアの開発と維持のために、その先にある日本に関心を向けた証拠と考えられないか。

プーチン大統領の最近の言説には、北方領土問題の解決に、前向きな気配が伺える。
南方での中国との領土問題に 落ち着いて対応するには、北方領土問題を解決して、北の憂いを取り去ることが大切だ。
天然ガスの共同開発がきっかけでもいい、いまが、北方領土問題を一気に解決するチャンスではないか。


北方領土問題で、どうしても外せない歴史上の事実がある。
それは、ヤルタ協定である。

第二次大戦の戦局がほぼ確定した1945年2月、クリミア半島南岸にあるソ連要人の保養地ヤルタで、連合国首脳があつまった。
目的は、最終段階の戦争遂行方針と、戦後処理について、であった。
集まったのは、英国のチャーチル、米国のルーズベルト、そしてソ連のスターリン。
中国を代表する蒋介石は、この会談によばれなかった。

ルーズベルトはソ連に、日本の武力圏を北方から攻めさせようとし、対日参戦への参加を求めた。
スターリンは、対日戦をやる代償として、いくつかの条件をもちだし、承諾を得た。
いわゆるヤルタ協定である。

ヤルタ協定は、全三項から成っている。
すべて、日本および中国に関係する内容である。
その第三項に、「千島列島が、ソビエト連邦にひきわたされること」とある。

これによって、いわゆる日本の 「北方領土」は失われた。
もっとも、協定でいう 「千島列島」とは、どの島からどの島までをさすのかという 地理的協定は話し合われていない。

だからソ連が解釈したままに、島という島がごっそり対象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島々をとりあげ、そこはいわゆる千島ではなく日本の固有領土だとする四つの島までとりあげた。

ヤルタ協定第一項は、「外蒙古(戦後のモンゴル人民共和国、いまのモンゴル国)の現状が維持されること」であった。
現状、つまり、モンゴル高原はソ連の傘下であり続けること、という意味である。

ロシアと中国のあいだには、モンゴルを介して国境紛争が存在し、いまもくすぶっている。
ジンギスカンの大モンゴル帝国の末裔モンゴルは、その後 清国に手ひどく痛めつけられた。
ロシアも気に食わぬが、中国のほうが もっといや。
モンゴル人の漢民族嫌いは やがて、モンゴルが国境を接する二つの大国 ロシアと中国のあいだの火種となる。

日本にとって、ヤルタ協定が厄介なのは、ここにある。
つまり、広大なモンゴル高原と、小さな千鳥列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、アジアにおける第二次大戦後の領域がきめられたことである。

このことは、もし千島列島(たとえそのうちの一部であっても)をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定は崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその 「現状が維持される」ことを、法理的には、やめざるをえなくなるということだ。
つまり、現在のロシアも、四島返還をはいそうですかと聞き入れる訳がない、ということである。

第二次大戦後、南樺太がはっきりとソ連占領地区となったのとは異なり、千島列島の帰属がうやむやになったのには、米国の思惑が大きく動いていた。
トルーマンは、沖縄と同じく、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させたかったのだ。
もっとも、スターリンの北海道東北部の占領要求を拒否できたのは トルーマンのお陰、とも解釈できる。

戦争の多くは、国境の奪い合いから始まっている。
そして、戦勝国は領土を広げ、敗戦国はかっての領土を奪われるのが常である。
日本は敗戦国であり、このことは戦後67年たったいまも、厳然と歴史上の事実として存在する。

1956年12月、日ソ共同宣言の批准書が交換され、日ソ間の外交関係が回復した。
この時、日ソ平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、不調に終わった。
収穫は、日ソ平和条約締結後に歯舞群島、色丹島をソ連が日本に引き渡す との条文が、共同宣言に盛り込まれたことだった。

その後、日ソ平和条約は忘れられたかの如くであり、交渉はストップしているかにみえる。

ロシアにとって、国後島や択捉島が持つ意味は、米国の太平洋東海域における沖縄基地と同様、オホーツク海上での安全保障にある。
ロシア側の安全保障に配慮しない限り、四島返還は絵に描いた餅である。
その点 安全保障上の重要性が薄い歯舞島や色丹島は、何らかの見返りと引き換えに 日本に帰ってくる可能性はある。

いずれにしても、外交力がものをいう。
毎年2月7日を北方領土の日にする などは、国内世論を掻きまわす 火掻き棒に仕立て上げるだけで、無用のことというより、賢い外交を積み重ねる上で むしろ有害であろう。


外交は、相手国の歴史を知ることから始まると言ってよい。
ロシア人によるロシア国は、人類の文明史からみて、きわめて若い。
若いぶんだけ、国家として たけだけしい野性をもっている。
日本がこの若い隣国と、大人の国としてうまくつきあってゆくことが、シベリアの東端に位置する日本の宿命ではなかろうか。