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伊丹万作の 『戦争責任者の問題』に接して

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朝日新聞8月12日付けの記事 ‘伊丹万作の伝言’から、ネット図書館 「青空文庫」を通して、伊丹万作のエッセイ 『戦争責任者の問題』に接した。
このエッセイで わたしは、伊丹万作という人物の正直さに感動するとともに、このたびの原発事故に対する自分の向きあい方を猛烈に問われていることを、はっきりと自覚した。

映画監督 伊丹万作は、代表作 「無法松の一生」で知られる脚本家でもある。
故・伊丹十三の父親である。
『戦争責任者の問題』は、肺結核で病床に伏していた伊丹万作が、終戦の翌年 亡くなる直前に 『映画春秋』創刊号に寄稿したエッセイである。

このエッセイの中で 伊丹万作が言いたかったことは、あの太平洋戦争の責任は 日本国民みんなにある、ということだと思う。
誤解を招かないように追記するのだが、伊丹万作は、ひめゆり学徒隊も 東京大空襲で黒焦げに死んでいった人たちも 赤紙一枚で出征し他国で失命した一兵士も、同じ重みの戦争責任を負わなければならない などと言っているのではない。
あの戦争は、一部の人間のやらかしたことで 自分はだまされただけだ と言い張るのでは、なんの解決にもならない、そう主張しているのである。
表現はきついが、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と主張しているのだ。
‘あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた’日本国民の ‘無気力、無自覚、無反省、無責任’を、伊丹万作自身も含め、憤っているのである。


わたしは以前 このブログで、原子力の平和利用について 「日本国民ひとりひとり、同じ勘違いをしていたのです」と書いた。
この表現は、穏やかさを装っていた。
露骨に 「わたしたちはだまされていた」と言うところを、躊躇したにすぎない。

言い訳を許されるなら、自分は無知であり無関心であったという自虐の念は、少しだけあった。
しかしそれは、伊丹万作の表現を借りれば、自分の立場の保鞏につとめていたにすぎない。
‘「だまされた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気分’になっていただけである。
自分自身、知らず知らず 原子力の平和利用の推進者の一員になっていた、つまり 「だますもの」の立場になっていたということである。


伊丹万作の言葉が、重く響く。

…「だまされた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるであろう。
   いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。…