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卑怯を憎む心

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大津市で中学2年の男子生徒が自殺した問題は、多くの親や学校や、なによりも子供たち自身に、大きな衝撃を与えた。
わたしも、その一人である。

この事件について思うところがあるので、ひとつの考えとして書いてみたい。


このたびの事件で、学校関係者や教育委員会への批判が厳しい。
当然だと思う。

ただ ひっかかるのは、子供たちの親は どう考えているのだろう、ということである。
いじめに関わった子も、いじめに気づきながら見て見ぬふりをしていた子も、どんな親に育てられたのだろう。
子の教育の第一歩は、家庭であるはずだ。

わたしの親は、お世辞にも褒められるような育て方をしたとは、決して思っていない。
ガミガミ叱るばかりだったが、しかし、叱り方に通底しているものがあった。
それは、卑怯な真似はするな、と、恥を知れ、であった。

わたしも どちらかと言えば、いじめられる方だった。
でも、いじめられそうになったとき、いつも 誰かが、かばってくれた。

かばってくれた彼らは、決して仲のいい友だちばかりではなかった。
どちらかと言うと、いわゆる ‘不良’な子が多かった。

彼らの家庭は、ほとんどが貧しかった。
親父さんも おふくろさんも、愛想の悪い親たちだった。
彼らがひどい叱られ方をしているのに、何度か立ち会った。
その叱り方は、わたしの親とはだいぶ違っていたが、怒鳴っているなかに 「卑怯な真似はするな」か 「恥を知れ」が入っていたように記憶する。


新渡戸稲造の著した 『武士道』という書物がある。
その著作の端緒となるのは、ある外国人との対話であった。

1890年のある日、ベルギー人法学者のド・ラヴレー氏と散策しながら会話をしていた稲造は、質問を受けた。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」
それに対し 「ありません」 すると、ラヴレー氏は驚いて歩みを止めた。
「宗教がないですと、いったいどうやってあなたがたは子供に道徳教育を授けるのですか」
その質問に対し、稲造は即答できなかった。

いったい、自分自身の道徳心、人の倫(みち)たる教訓はどこから来ているのであろうか。
この問題を考え抜いた稲造は、ひとつの結論に達する。
それが 「武士道」である。

日本人は、古来より、固有かつ世界に誇れる道徳体系を持っていた。
大先輩の高橋幹雄氏の一口メモを借用すると、稲造のいう武士道とは、つぎのような、人間として当たり前のことなのである。

   不正、卑怯を憎む心。
   富や金銭より、品位と名誉を重んずる心。
   弱者、敗者をいたわる心。
   命を賭けて、正しさを通す心。


子は親の背中を見て育つ、という。
いじめる子も いじめを見過ごしている子も、そして、あえて言うが、いじめられている子も、親の背中を見て育ったのである。

親は、世の中が悪い 教育委員会が悪い、という前に、まず おのれ自身に 「卑怯を憎む心」が残っているのか、を見つめ直すことであろう。