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義仲寺

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大津プリンスホテルから琵琶湖文化館にかけての 「におの浜」一帯は、一面の松原であった。
粟津の松原といった。
旭将軍・木曽義仲の、討ち死にの地である。

平家物語 「木曽最期」のくだりは、戦記物好きにとって ハイライトのひとつ。
その末尾は、義仲の死を ひときわ儚く哀れにさせる。
 「さてこそ粟津のいくさは なかりけり」
 (それで結局、粟津の合戦と名づけるような はなばなしいものは なかったのである)

木曽殿最期からよほど経て、この地を 見目麗しい尼僧が訪れる。
義仲の墓所のほとりに草庵を結び、日々墓供養を怠らない。
里人がいぶかって問うと、われは名も無き女性(にょしょう)と答えるのみである。
この尼こそ、義仲の側室・巴御前の後身であった。

都を追われ たった主従五騎になっても、粟津ケ原まで義仲公につき従ってきた巴御前であった。
「木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど いはれん事も然るべからず」との義仲の思いで、やむなく戦列を離れ、落ち延びたのであった。

尼の没後、この庵は 「無名庵(むにょうあん)」と となえられた。
この木曽塚・巴寺が、義仲寺である。


義仲寺は、東海道線膳所駅あるいは京阪膳所から琵琶湖側へ 西武大津のある湖岸道路 「におの浜二丁目」の手前にある。
繁華街に囲まれて 小さく目立たない ひっそりとした、しかし、落ち着いた いつまでも去りがたい寺院である。
訪ねたのは、猛暑日のさなか 盆の8月12日であった。

ここを訪ねたかったのは、源平の武将のなかで いちばん好きな木曽義仲の墓がある、ということのほかに もうひとつ、俳聖・松尾芭蕉の墓があるという理由からであった。
なぜ芭蕉は、大坂の旅窓において 死の病の床から 「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言したのか、義仲寺を訪ねたら その謎が解けるような、そんなたわいない願いもあった。

想像をたくましくして、その謎を解く手がかりを探る。

無骨で粗野な田舎者との先入観が強い義仲は 実は、人懐っこい人情家だったと想像する。
男女を問わず、人を惹きつける人間的魅力の持ち主であったらしい。
人を疑って遠ざけるのではなく、信じて受け容れるタイプだったのではなかろうか。
従兄の源頼朝と この点で、まるで正反対の性格の持ち主だった。

芭蕉が義仲に惹かれた理由のひとつが、この義仲の人柄にあるのは まちがいないと思う。
それにしても、義仲びいきという理由だけで 自分の骸を木曽殿のほとりに葬ってほしい、となるだろうか。

松尾芭蕉は、伊賀上野の生まれ。
30歳ころまで 地元で仕官し、その後 江戸へ出て職業的な俳諧師となる。
しばしば旅に出て、『奥の細道』などの紀行文を残している。
無名庵をしばしば訪れた芭蕉は、奥の細道の旅ののちも、この地に長逗留している。
その間、弟子である膳所藩主・管沼曲翠の勧めで、石山寺近くの幻住庵に4ヶ月ほど滞在。
また、京都・嵯峨野に入って落柿舎に滞在し、弟子たちと 『猿蓑』を編纂している。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿で 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死する。
享年51歳、元禄7年11月28日(旧暦10月12日)のことである。

芭蕉のこの生涯をみて、もし自分なら どの地に骨を埋めたいか、と。

普通なら やはり、故郷の伊賀上野であろう。
芭蕉忍者説など謎が多いのだが、芭蕉には故郷に骨を埋められない訳があったのかもしれない。

嵯峨野の落柿舎も、芭蕉は気に入っていたに違いない。
しかし、嵯峨野は陰気だ。
孤独を愛する若いときなら 嵯峨野はうってつけであろうが、死後に見たい風景は もっと明るい場所がいい。

芭蕉は、琵琶湖の明るい風景を 最も愛したのではなかろうか。
粟津の松原を望む木曽塚のほとりなら、旭将軍・義仲の生きざまにも寄り添える。
だから、無名庵、義仲寺だったのだと思う。


義仲寺は、旧東海道に沿っている。
元禄のころは、風光明媚で なおかつ 大いに賑々しいところであったことだろう。
琵琶湖はすぐそこなのに、いまは建物で埋まって、粟津の松原は想像しづらい。

それでも、義仲寺の翁堂のまえの小さな池に たくさんの小亀が遊ぶのを眺めていると、松原を渡ってくる琵琶湖の風が 耳を掠める気がした。