鉄が海を救う |
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下の画像は、3年前 東京大学総合研究博物館で催された<鉄-137億年の宇宙誌>会場で、許可を得て撮ったものである。
右が 鉄分を吸収しやすい土壌で育てた稲、左が 鉄分を吸収しにくい土壌で育てた稲。
育ち方の差は、歴然である。
3年前、鉄についてどうしてももっと学ばねばならない事情があり、<鉄-137億年の宇宙誌>展を見るべく 東大本郷キャンパスを尋ねた。
工業材料としての鉄に関する知識補給という初目的は、ほぼ果された。
同時に、「生命は鉄なしには生きてゆけない」という、まったく新鮮な認識を促された。
冒頭の画像は、その一例である。
植物は、鉄がなければ 窒素やリンなどの養分をうまく吸収できない、という一証例だ。
稲は、‘ムギネ酸’という物質を分泌して鉄と融合し、水に溶けやすい ‘ムギネ酸鉄’という錯体の一種であるキレート物質を作って、鉄を体内に吸収する、との説明であった。
化学音痴なわたしは 字面を追うだけであったが、今までの鉄に対する認識とは別種の、なにか神々しい鉄の力みたいなものを感じて 興奮気味であった。
人間も、体内で酸素の運搬に重要な役割を果たすヘモグロビンの主成分である 鉄なしには、生命維持できない存在である。
人体に含まれる鉄の量は、2寸釘一本分(約3g)。
この わずかな鉄分が、多すぎてもいけないらしいのだが、不足すると、人間は生きてゆけない。
海の生きものも 然り、らしい。
海の食物連鎖の基である 植物プランクトンや海藻は、窒素やリン、ケイ素などを必須栄養分としているが、先に体内に微量の鉄分を取り入れておかないと、これらの必須栄養分を取り込めない構造にできている。
つまり、鉄分が不足している海には、植物プランクトンや海藻の育ちが悪く、それを餌にしている動物プランクトンや貝が生きづらく、またそれらを餌にしている小魚…と、海は痩せていく。
海が ‘貧血’をおこすのである。
‘地球は鉄の惑星’といわれるほどに、地球の質量の三分の一は、鉄である。
生命維持には微量でいいのに、海はどうして鉄分が不足するのか。
単純にそういう疑問が湧いた。
地球の三分の一を占める鉄は、地球中心部に集中している。
地表から深さ16㎞以内にある元素の質量百分組成では、鉄は5パーセントに過ぎない。
それでも、生命維持には有り余るほどだ。
なのに、海に鉄分が不足している。
ここまでが、3年前の<鉄-137億年の宇宙誌>展見学で得た知識と そこから湧いて出た興味であった。
仕事柄もあるのだが、わたしは 鋼、鋳鉄、Fe、製鉄、製鉄機械、鉄工…と、鉄の追っかけマンみたいなところがある。
でも 相手は、無機質な鉄だった。
それでも、有機質の生命体である海の生物が 鉄不足による ‘貧血’をおこしている、というところで、ははーんと思ったことがある。
自然に存在する鉄鉱石から鉄を作るのには、高炉のような専門の設備でコークスをどんどん燃やして(炭酸ガスをどんどん排出して)、高温度の還元状態を作らなければならない。
つまり、酸素と硬く結合した状態の鉄(三価の鉄)から、工業材料としての鉄(二価以下の鉄)にするには、大きな熱エネルギーを要する。
生命体も、鉄分を体内に取り入れるには、大きな熱エネルギーに匹敵するくらいの、いや それ以上の、自然の微妙なからくりが必要なのだろう、そして その自然のからくりを阻害するような出来事が起こっているのだろう、そう思った。
もっと知りたくなった。
辿っていった先は、気仙沼湾の漁師(京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授でもある)、畠山重篤氏であった。
ここからは、北斗出版の畠山重篤著 『森は海の恋人』(いま文藝春秋社から文庫本で出版されている)や 畠山さんが書かれたエッセイなどを読んで、思ったり考えたりしたことがらである。
気仙沼湾で牡蠣や帆立の養殖を営んでいる畠山さんは、50年ほど前から 赤潮による水産被害に悩んでいた。
高度成長期のころである。
それから四半世紀経った1989年、海の問題は森で解くのだと直感し、「森は海の恋人」を標榜して植林活動を始める。
自然相手のなりわいが、おのずと自然の病みには敏感になる能力を養ったのであろう。
ちょうど それは、アメリカの海洋学者ジョン・マーチンが、富栄養にもかかわらず植物プランクトンの生物量が低いままに保たれている海域(HNLC海域)があることを指摘し、それは 鉄がその海域で不足しているためである と結論づけた時期と、ときを同じくしていた。
もちろん この時点では、畠山さんは ジョン・マーチンという名前すら知らない。
このころ、気仙沼湾に注ぐ大川の河口から わずか8キロの地点に計画されていた新月(にいつき)ダムの建設計画が、本格化しようとしていた。
その建設反対運動の一翼を担った畠山さんは、単に反対を唱えるだけではダメだと気づく。
反対する科学的裏付けが必要と痛感していた彼は、当時北海道大学で 海の砂漠化 ‘磯焼け’の原因を究明している海洋化学研究者・松永勝彦教授の存在を知った。
ここが畠山さんのすごいところだと思うのだが、彼はすぐに松永教授に会いに行く。
松永教授の援助があれば、大川が運ぶ森の豊かさを新月ダムが堰き止めてしまうという 科学的根拠が得られる、そう彼は確信した。
同時に、畠山さんら漁師が気仙沼の海のために20年間こつこつと森でやってきたこと、気仙沼湾に注ぐ大川の源流が発する室根(むろね)山にブナ、ナラ、ミズキなどの広葉樹を植える運動は
「理にかなっている」と、松永教授に太鼓判を捺してもらったのである。
新月ダムは 2000年、大川治水利水検討委員会の具申を踏まえて 建設省がダム工事補助の打ち切りを表明し、宮城県は事実上 工事中止を決めた。
新月ダム建設中止の立役者は、‘フルボ酸鉄’という物質であった。
畠山氏は こう語る。
「鉄は、地中や水中では鉄粒子の状態ですが、ほんの少しずつ、鉄イオンの形になって溶けだします。
しかし、鉄粒子から溶けて鉄イオンになるスピードは非常に遅く、植物プランクトンの需要を満たすだけの供給量はありません。
ところが、森の木の葉が落ちて堆積し、それを土中のバクテリアが分解すると、その過程でフミン酸やフルボ酸という物質ができます。
このフミン酸が土の中にある鉄粒子を溶かして鉄イオンにし フルボ酸と結合すると、水溶性のフルボ酸鉄という安定した物質になる。
それが、沿岸の植物プランクトンや海藻の生育に重要な働きをしているのです。
植物プランクトンや海藻は、水に溶けている鉄しか吸収できないからです。」
畠山重篤という在野人の存在を知って わたしは、鉄がますます好きになった。
工業材料としての鉄の魅力とはまた違った 一回り大きな鉄の魅力を、胸いっぱいに吸い込んでいる。
それにしたも 気がかりだったのは、大津波が襲った気仙沼湾であった。
『鉄が地球温暖化を救う』という畠山さんの著書が、つい最近 『鉄で海がよみがえる』と改題して 文庫本になった。
その<文庫本あとがき>を読んで、わたしは ほっとした。
そこには、沈黙の海だった気仙沼湾が、驚くべき早さで回復しつつあることを報じている。
彼は、言う。
「三陸の歴史は津波との戦いの歴史である。そんな危険な地になぜ人は住み続けるのかとの質問も多く受ける。
だがそれは、目の前の海が豊かだからに他ならない」と。
死の海だったはずの気仙沼湾の急速な回復を受けて彼が確信したのは、永年抱いてきた 森と川と海との関わりであった。
もっと広く、自然のいとなみの凄さであった。
そして、森と川と海をつなぐキーとなっているのが 鉄という物質であることを、改めて思い至ったのである。
鉄が海を救う、なんと魅力的なテーマではないか。
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