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ひめゆりの塔

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6月23日の朝日新聞に 「沖縄戦 ロックの語り部」の表題で、大阪に住む沖縄出身の若者らが 「6月3日」 という曲を作ったことが載っていた。

6月23日は、第二次世界大戦中 激しい地上戦があった沖縄の犠牲者を悼む慰霊の日である。
この曲を作った若者たちは、沖縄戦下 避難壕の中で 米兵に気付かれまいと、泣き叫びそうな 幼子の口を塞いで窒息死させてしまった母の 深い悲しみに思いを至らせ、こみ上げてくる怒りと平和の裏の悲しみを ロックで歌い上げている。


今でも目をつぶると思い出すよ
現実には考えられない日々がそこにあったの
よく晴れた空の下 鉄の雨が降り光と共に大地は赤く染まっていったわ
私は我が子を抱え 小さな命の灯が消えないように必死で守ったの
ガマ(防空壕)の中に隠れ
我が子が声を漏らさぬよう、強く、強く抱きしめ
もう少しだけ、もう少しだけ、がまんして・・・
気づいたら私の腕の中で小さな命の灯は消えていたの
頬には一粒の涙が流れていたわ
僕の心に響く 平和の裏の悲しみの音が
この日を忘れない 一歩を踏み出したこの日を
空はあの日と変わらず青いままで
海は深く・・・
あなたにも感じてほしい あなたにも祈ってほしい
あなたは何を感じますか? あなたは何を祈りますか?
この歌をみんな忘れないで
悲しい現実があったことを



歌詞のうまいへたの問題ではない。
この若者たちは、沖縄出身とはいえ 私以上に沖縄戦から遠いはずだ。
その彼らが こんなに 心を遠く尊いかすかな命に飛ばすことができることに、私は感動する。

いま 政府は、沖縄戦戦闘のさなかに起きた住民の 「集団自決」 を巡り、日本軍の強制があったとの記述を、教科書から削ろうとしている。
しかし、終戦の年、連合軍の本土上陸を一日でも引き伸ばそうと、沖縄司令官 牛島中将が 2月15日に出した 「戦闘指針」 が、すべての沖縄住民を一戦闘員とみなした作戦であったことは 紛れもない史実である。

激しい首里攻防戦後の5月22日、牛島司令官は南部への撤退を指令する。
いわゆる “鉄の暴風” 死の彷徨の南部戦線の始まりである。
わずかな残存兵力で敵兵力を牽制抑留し出血を強いようとするこの作戦は、まさしく10数万人の沖縄住民を巻き添えにした決死戦であり、ひめゆりの急造従軍看護学徒隊も これに従った。

6月18日、牛島司令官は、壊滅状態の全将校に無期限戦闘の命令を下し、陸軍病院にも解散命令を出した。
そして この期に及んでも投降を許さず、6月23日、摩文仁の壕で自決してしまう。

牛島中将をどうこう言うのではない。
あのおろかな太平洋戦争に導いた代表が当時の日本軍である限り、沖縄住民を 「集団自決」 という 最悪の選択に追いやったのは日本軍であったとの表現の どこに問題があるというのか。
いまの政府を動かす政治家に、あの大阪のロック若者たちの感性のかけらでもあれば、こういうバカな発言が出るはずもなかろう。

学生の頃、友人らが沖縄へ旅するのに誘われたことがある。まだパスポートが必要な時代だった。
私は行かなかった。物見遊山で沖縄へ行くことに、抵抗があった。
沖縄戦の悲惨さを、親戚から聞かされていたからである。

時を経て 平成4年の暮れ、出張で 生まれて初めて沖縄の地を踏んだ。
仕事が一段落した翌年の1月31日、ひめゆり平和祈念資料館に ひめゆりの塔を尋ねた。
資料館第四展示室 「鎮魂」 の部屋には、南部戦線でのひめゆりの全犠牲者の遺影が、部屋の三面の壁をぎっしり二段で埋め尽くしている。
それぞれの遺影には、死亡日、死亡時の年齢、死亡したときの状況が添えられている。
私の誕生日 昭和20年5月22日死亡とある島袋さんの遺影の前で、私はしばらく動けなかった。
生まれ変わりということを、そのとき私ははっきりと自覚できた。
この人たちのお陰で いま私があるという思いを、はっきりと自覚できたのだ。

その後 仕事で沖縄へ行く機会ごとに、ひめゆり平和祈念資料館を訪れ、第四展示室 「鎮魂」 の部屋でひとときを過ごすようになった。
この部屋にいると、とても心が安らぐのである。
と同時に、どんなことがあっても 二度とあのような愚かしい戦争をしてはならないと、自分でもおかしいほど真剣に 心に誓っていた。

あの誓いとは裏腹に、反戦を口に出さなくなって久しい。
この体たらくな恩知らずに、「沖縄戦 ロックの語り部」の記事はこたえた。
この若者たちに触発されたことに 感謝したい。機会あるごとに、反戦を訴えるべきである。
テポドンが飛んできたらどうするんや的 現実論には、もうへこたれない。年金問題も大事。増税もつらい。
でも、いったん戦争という悪魔に身をまかせたが最後、年金も増税も どこ吹く風となろう。
尊厳ある魂が吹っ飛ぶ以上に、問題なことがあるだろうか。

好きな作家だった 城山三郎さんは、生前こう言ってられたという。
戦争であれほど犠牲を払って得たものは憲法だけだ」と。
私は、なにがなんでも護憲とはいわない。だが、第9条 「戦争放棄」 だけは、守りたい。

具体的方法があるのか と責められる。そんな具体的な方法など わからない。

でも、あのロックの若者たちの感性が 平和の裏の悲しみを理解する気持ちが みなの心にあれば、反戦は そんなにむずかしいことだろうか。

第9条 「戦争放棄」 だけは、どうしても守りたい。
それが、いまある私を創ってくれた 島袋さんたちへの恩返しなのだから。