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無窮洞(むきゅうどう)

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ディズニーランドほどではないにしても ハウステンボスは、名前だけでも ほとんどの人が知っている。
単独テーマパークとして連続した敷地面積では ディズニーランドよりも広く、群を抜いて日本最大である。
そのハウステンボスのすぐ近くに、無窮洞という防空壕跡がある。

ハウステンボスの大部分の地が 太平洋戦争時に軍に接収されていて、ごく短期間 広島県江田島の海軍兵学校分校が置かれていたことは、あまり知られていない。
そう言うわたしも、無窮洞を訪ねるまで 知らなかった。

日本本土空襲時に軍事施設が真っ先に狙われたのは当然で、この地に隣接する住民たちは何よりも先に 空襲の脅威から身を守らねばならなかった。
しかし、男手は戦場にとられ、鉄製のツルハシやシャベルは強制供出で乏しく、防空壕を掘るのは、女子供の手と 残されたわずかな掘削道具に委ねられた。
無窮洞は、南風崎(はえのさき)を挟んで兵学校分校の東に位置する宮村の国民学校の教師と小学生たちが掘った、生徒500人が避難できる巨大な防空壕である。


このたびの旅で実感できたことだが、佐世保港はいまでも軍港である。
海上自衛隊基地よりも米軍基地が目立つ。
湾の大半が、米海軍による制限水域となっている。
まさに、湾全体が海の米軍基地の感である。

佐世保湾に流れ込む大きな河川がないことから土砂の流れ込みが少なく、湾中央部は大型艦船を停泊させるのに十分な水深を持つ。
外海(五島灘)とは狭い水道で繋がるのみで、湾内には懐の深い入り江が多く、天然の良港である。

その佐世保湾の奥、針尾瀬戸と早岐(はいき)瀬戸という2本の水路で海に繋がる大村湾。
穏やかな波が海岸に打ち寄せるさまから、琴の湖(ことのうみ)の別名がある。
現に、大村湾には海の感覚はなく、湖としか思えない。

ハウステンボスは、針尾瀬戸と早岐瀬戸で区切られた島、車で通過していても とうてい島とは想像できない針尾島の、東の一画にある。
ここに海軍兵学校分校が置かれていたことは、地形的にうなづける。
だが、宮村の人たちにとっては、迷惑千万なことであったろう。

明治19年、佐世保村の人たちは、平戸島の江袋湾(薄香湾南岸の支湾)や佐賀県の伊万里湾と 海軍西海鎮守府の誘致争いで勝利し、狂喜したと聞く。
想像だが、太平洋戦争末期の宮村の人たちは、そのような喜びとは縁遠かったに違いない。

無窮洞詰所の(たぶん)ボランティアの方の説明を、想像以上に天井の高い無窮洞の洞内で聴きながら、戦争というものの理不尽さを、改めて思い知らされた。
昭和18年8月から終戦の昭和20年8月15日まで、児童たちは4年生以上がツルハシや鍬で掘り進み、下級生はホゲで土を運び出し、女子生徒がノミで仕上げたのである。
この洞窟を掘るためだけに、丸二年間、である。
「勉強ばせんで毎日、洞掘りですよ」


小選挙区制の弊害で、衆議院選挙はオセロゲームの如く、民主党から自民党へひっくり返った。
これも一つの民意であろうが、自民党へ投票したもののほとんども、戦争を是としているはずがない。
たとえ1パーセントの可能性でも、戦争に繋がる政策を許してはならない。

いまこそ もう一度、城山三郎氏の言葉を思い起こさねばならない。
「戦争であれほど犠牲を払って得たものは憲法だけだ」と。

無窮洞を掘った生徒さんたちは、もう80歳だ。
ご存命の方も、だんだん少なくなってきていると聞く。
彼らの言いたいことは、この無窮洞がいままで保存されてきたことで言い尽くされている。
彼らがいなくなった日本で 「戦争はいやだ」と主張できるのは、想像力しかない。


無窮洞の中でわたしは、想像する力をもっている自分を自分で、いじらしく思えた。