YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
頼るべきは、自分自身に宿るエネルギー。

文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中



気功太極拳を永年学んでいて、その究極の目的はいったい 何だろう と、疑問に思ったことが これまで何度かありました。
それを、元日の中日新聞に載っていた 「新春対談」で、はからずも知ることができた気がします。
東大教授・玄田有史(げんだゆうじ)氏と、脚本家・倉本總氏の、「明日をひらく」というタイトルの対談です。

以下に述べる気功太極拳への思いは、この対談から気づかされたものです。


気功太極拳の究極の目的は、自分自身の体内に宿る<エネルギー>を見いだし 使いこなすこと。
それは、<生きる力>と言い直しても いいのかも知れません。
それは また、<希望>という名の幸せ力とも言える。
人間 究極のところ、頼るべきは 自分自身の体の中に持っている<エネルギー>であり、それを巧みに操って生きることが とりもなおさず、各自特有の幸せのかたち<希望>なのですから。

気功太極拳をやっていると、ときどきですが、とても幸せな気分になります。
その幸せな気分とは、極めて個人的な<幸せのかたち>なので うまく表現できないのですが、いまこのときに満ち足りている気分…かな。
それは、冒頭に紹介した対談で、倉本氏が表現されていた心と通じるように思います。
すなわち、「幸せとは、現在に満ち足りている心」だと。


この 「新春対談」で、もうひとつ気づかされたことがあります。
これまで自分がどうして職人に魅力を感じていたのか、それを、玄田氏のつぎの発言で ガッテンな解釈を得たのです。

  (「生きる」ということと 「暮らす」ということが分離している、そこに現代人の欲望制御不能の病巣があるのでは、という趣旨の倉本氏の指摘に応えて…)
  感覚がまひするんですね。たとえば職人のよりどころは、体験であり、実感に裏打ちされた見方です。そういう体験が大事だという人が減っている。

これを受けて、倉本氏が引用した 宮澤賢治の教えに、足るを知る心の神髄を見た気がします。

  彼(宮澤賢治)が農学校の先生をしていたとき、「二引く一は?」と聞いたら生徒は 「一です」。では 「二引く二は?」、「ゼロ」。そして 「二引く三は?」。 「マイナス一です」と答えたら、「それは違う」と言う。 「二つのリンゴからは二つしかとれない。三つとろうとしても、二つなくなって、もう一つはとれない。答えはゼロだ」。 そっちのほうが正しい。リアルだという気がする。なくなったらとれないということが残る。

高望みとは全く違う価値観、職人は これを、理屈ではなく 実感として身に備えているのだと、気持のいい解釈ができたのです。
職人は巧まずして、 「頼るべきは、自分自身に宿るエネルギー」だと、体得しているのです。


気功太極拳と職人は、その究極の目的とするところは、意外に同じなのかも知れません。


最後に、玄田氏が被災地・釜石で出会った82歳の八幡さんの<夢>を、年の初めの自分の心に刻むべき言葉として、引用させていただきます。

  「夢を持ったまま死んでいくのが夢です」。