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尋ね人の時間

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点けっぱなしのラジオから流れる、延々と(そう感じた)続く 「尋ね人の時間」。
受験勉強をしていた高校のころまで、聞いていたように思う。

聞きたくて聞いていたわけではない。
<ながら>族の習性で、耳に入ってきただけである。

「尋ね人の時間です」とのアナウンサーの声で始まり、「これらの方々をご存じの方は日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都港区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて 『うちさいわいちょう』です」で終わる。
淡々と抑揚なく読み上げられる、訳が分からないのに なぜかもの悲しい番組であった。

その悲しみのほんとうの訳を知るのは、ずっとのち、テレビで放映された 『戦後50年企画-尋ね人の時間-』という番組を見てからである。


「尋ね人の時間」は、ラジオの聴取者からの依頼に基づく伝言番組であり、その依頼人からの手紙の内容をNHKがラジオ放送したものである。
昭和21年に 「復員だより」としてスタートしたこの番組は、南方からの復員が一段落した昭和22年からは 「引揚者の時間」という名前に変わって、シベリアや中国大陸からの帰還者の情報や消息が流された。
その後 番組の名称は 「尋ね人」となり、『尋ね人の時間です』とのアナウンサーの声から始まったため、「尋ね人の時間」と称された ということである。

名もない人たちの、懸命に生きた人たちの、悲痛な叫びを、戦争を知らないわたしが、脱脂粉乳(ユニセフミルク)のまずい味は覚えているわたしが、「尋ね人の時間」に聞いたと言えば、面映ゆい表現だろうか。

あれから67年、「尋ね人の時間」の放送が終了してからでも、50年。
わたしの記憶がおかしいのだが、中国残留孤児たちに関する情報を伝えるラジオ番組(昭和55年以降か)も、わたしの中では 「尋ね人の時間」なのである。
それすらも、もうずっと遠い過去になってしまったようだ。


4年半ほど前に 『映画「ひめゆり」』と題してこのブログで紹介した、ひめゆりの語り部・比嘉文子さんは、3年前に亡くなられている。
その報を新聞で知ったとき、あぁ またひとり、大切な証人が逝ってしまった と、なにか 取り返しのつかない悲しみが込み上げてきたのを覚えている。

ここに改めて、比嘉文子さんの言葉をお借りしたい。

  私が子供の頃、親が星空をながめて、先祖から言い伝えられた話をしていました。
  「箒星(ほうきぼし)が出たら、また戦(いくさ)が起こるのではないか」。
  ほうき星とはハレー彗星のことで 70年あまりの周期で訪れます。
  70余年たつと、親たちも死に、戦争を体験した人たちも亡くなり、指導者たちが戦争を美化しようとします。
  私の親が言っていたことは、そのことを戒めているのだと思います。
  戦争の美化は絶対にさせたくないと思っています。
  そのためにも、若い人たちは真実を見つめ、学び、しっかり行動していって欲しいと願っています。


もう一度言おう。
反戦の心は、イデオロギーや政治や理屈ではない。
戦争がいかに人間を鬼畜にするか、それを、その地獄をくぐってきた、いとしい人々の叫びなのである。

わたしは、生きている限り、「尋ね人の時間」を忘れはしない。