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筑紫哲也が生きていたら

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末は博士か大臣か。
かって 神童と呼ばれた子が幼少のころに、大人たちから からかい半分で囃したてられた言葉です。
そのほとんどの `神童’は、長じて `ただの人’なのですが・・・

かように、大臣とは、凡人にとって なりたくてもとうていなれない、偉い存在でありました。
まして その大臣のトップ、内閣総理大臣は、偉い偉い雲の上の人でありました。
それが、いまは…

身近な存在になった、といえば言えなくもない。
しかし あえて尊大に言えば、お粗末です。
ソーリダイジンの値打ちが、下落したのです。

その咎は まず、現行総理大臣に就いている安部晋三氏にあります。
安部氏が いとも軽率にやった同じことを、福田康夫氏が またしでかしました。
極めつけは、鳩山由紀夫氏。
彼らのすべてを否定するつもりはありませんが、日本国内閣総理大臣という地位を眨めた咎は避けられますまい。

筑紫哲也は、福田康夫氏よりお粗末な首相はいくらもいました と前置きしながらも、福田氏の突然辞任を 彼の最大の “罪状”であると批判していました。
筑紫哲也なら、民主党政権の不甲斐なさをどう糾弾したであろうか、原発事故とどう向きあったであろうか、安部晋三氏の ‘返り咲き’にどう切りこんだであろうか…

筑紫哲也なら、筑紫哲也なら、と、座標軸のふわふわしているわたしは、縋るように筑紫哲也を想います。

筑紫さんは日本の座標軸を示してくれました と慕ったのは、鳥越俊太郎氏です。
わたしにとっても、筑紫哲也は、ただいまこの世をみる 「横の座標軸」でした。

縦の座標軸は、司馬遼太郎です。
歴史を考える指標となる縦の座標軸は、色褪せにくいスパンをもっています。
でも 横の座標軸は、時々刻々の状況変化に対応しなければ 意味がありません。
だから、筑紫哲也が生きていたら、と思うのです。

先日、BS-TBSで 日曜特番 「筑紫哲也 明日への伝言~『残日録』をたどる旅」という番組をみました。
その中で、筑紫哲也がジャーナリストとしての自覚が芽生えたのは、本土復帰前の沖縄特派員時代だったことを知りました。
平和への思い、安寧への希求を、ジャーナリストの根っこの有りように据えたのは、沖縄の真実だったのです。

わたしが、平和という 一種こそばゆい言葉に、どれほど大きな重みがあるかを感じ取るきっかけを得たのも、沖縄でした。
ひめゆり平和祈念資料館 第四展示室 <鎮魂>の部屋、わたしの誕生日 昭和20年5月22日死亡とある島袋さんの遺影の前で、金縛りになって立ちつくしたときです。
生まれ変わりということを、はっきりと自覚したときです。
この人たちのお陰で いまわたしがあるという思いを、はっきりと自覚できたときです。

2003年8月15日のNEWS23 「多事争論・ぶっちゃけの時代に」で、筑紫哲也はこう語っています。
  平和でいようとすることが あたかも悪いことであるかの如く、言われるようになりました。
  平和という言葉は もう大っぴらに言うことが憚られるという状況が、すぐ近づきかねない。
  そういう中に、わたしたちはいます。

この日曜特番をみて わたしは、ある確信を得ました。
横の座標軸は、いまを生きている このわたしの信念でいい。
平和への思い、安寧への希求を、根っこの有りように据えている限り、筑紫哲也の座標軸から大きく逸れることはない。
そう確信できたのです。

頑迷は避けねばなりませんが、この有りように関する限り 頑固を通して良い、いま 爽やかな気持ちでそう考えています。
筑紫哲也が生きていたら、そう応援しただろうと 空想しながら…