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「ごん」の結末は なぜ悲しいの?

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「ごん」というのは、新美南吉の童話 『ごんぎつね』にでてくる いたずらキツネのことです。
わたしが11歳のとき (昭和31年)に、『ごんぎつね』は小学4年生の国語の教科書に載ったことになっています。
だから、まっさきに ‘こくご教科書’で読んでいるはずなのですが、覚えていません。
このお話に出会い 大きく心が動いたのは、幼かった息子や娘が買ってもらっていた 箕田源二郎イラストの絵本(ポプラ社)でした。
40年近く前になります。


「ごん」の結末は なぜ悲しいの?
この問いは、2月3日の朝日新聞 「天声人語」に記されていた言葉です。
ポプラ社の絵本に触れたときから、この問いかけが、はっきりした形ではありませんが、わたしの心に重しみたいに残っていました。
人間が生きていくうえで どうしても抱えなければならない悲しみ、それをどう処理したらいいのか、当時のわたしには 見当もつきませんでした。

「ごん」の結末は なぜ悲しいの?
子供たちのこの問いに、知多半島の半田市にある新美南吉記念館の遠山光嗣学芸員は、わかり合えないことやすれ違いがどうしようもなくあることを、南吉は言いたかったのでは、と答えるようにしていると、「天声人語」には書かれています。

この答えに接しても、わたしには なにか釈然としませんでした。
半田市の新美南吉記念館を訪ねてみたい。
そこへ行けば、なにか腑に落ちる答えが見つかるかもしれない。
今年は、新美南吉生誕百周年であり、没後70年でもある。
この機会を逃したら、「ごん、おまいだったのか。いつも栗をくれていたのは。」で終わってしまいそうで…


東大阪市の司馬遼太郎記念館を訪れたときにも また長野県安曇野の碌山美術館を訪ねたときにも感じたことですが、土地の人たちが、その土地の出身者である司馬遼太郎を また荻原守衛を敬愛して止まない、その心が訪問者ひとりひとりに、ひしひしと伝わってきます。
ここ半田市の人たちも、きっと新美南吉を深く敬愛しているに違いありません。
新美南吉記念館をとりまく さざんかの森や童話の森には、日よけ帽を被った大勢の婦人が掃除をされていました。
なだらかな小山の芝を刈ったり、せせらぎの小径の流れの底浚いをしたり、小道の脇に植えられた木々の剪定をしたり…
そして、きょうは暖かで良かったですね、どちらから来られました?などと、にこやかに話しかけてくれるのです。

わたしは、館内のパネルをひとつひとつ熟読してまわりました。
南吉の29年の短い生涯を、何ひとつ見落としてはならない気持ちで、まわりました。
そして、最後のパネル、28歳の日記の一文の前で、佇んでしまいました。

  よのつねの喜びかなしみのかなたに、
  ひとしれぬ美しいもののあることを知っている悲しみ。
  その悲しみを生涯うたいつづけたい。

南吉は、悲哀は愛に変わることを、短い生涯で会得していたのです。
南吉は、幼いころから孤独に苦しみ、おのれのエゴイズムにさいなまれていました。
悲しみのはて、それでも人は悲しみがあるからこそ愛を求め、他人の悲しみに気づくこともできるのです。

「ごん」の結末は なぜ悲しいの?
この問いに、具体的な答えは見つかりませんでした。
しかし、気づきはありました。
悲哀は愛に変わる、これがあるからこそ、人間は人間らしく生きられるということを。