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非科学的ということ(科学の限界について)

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科学の進歩というものは、新しい手段が古い手段にとって代る、という形でなされる。
古い手段に慣れ親しんだ者にとっては、耐えかねるような損失の上になされてきた、という場合もあったであろう。
科学の進歩は、必ずしも、つねに人間に幸福をもたらしてきたとは言い切れない。


卑近な例で、手紙。
年配者でもメール交換する時代に、手紙は、たしかに古い手段になってしまった。
しかし、新しい手段であるメールが、その進歩によってすたらせた古い手段の手紙の機能を、すべて果しているわけではない。
メールという言葉すら知らない離島や過疎山村の老人にも、80円で手紙は届くのだ。
そして その手紙は、その発送主の心情をひしひしと、それを受け取った老人に伝えているかもしれない。

もうひとつ、例をあげよう。
カーナビ。
カーナビの恩恵は、もともと方向音痴のわたしにとって、計り知れないものがある。
しかし、その恩恵によって失われたものも多い。
広域エリアにおける目的地点が占める位置的意味は、大きな地図を広げて はじめて判るものだ。
車を止めて地の人に道を訪ねて得る人のぬくもりは、スイスイ行けるカーナビ運転では決して味わえない。

たとえを、もう一つだけ。
原子核工学部は、ある時期 花形学科であった。
この花形学科の卒業生の結実のひとつ 原発は、他の発電手段の群を抜く誇らしい先端科学技術であった。
が、誇らしいはずの科学技術の凝縮果実 原発は、実はとんでもない危険を孕んでいた。


科学的であることが、人間の幸せにとって必要不可欠なことなのか。
一体、科学的とはどういうことなのだろう。
死を、概念ではなく、もうすぐそこのこととして考えるとき、科学は人間にどれほどの幸せをもたらすのか。
iPS細胞が、静かに死に向おうとする老人たちに、いったい何ができるというのだろう。

科学には限界があり、その扱いうる対象はきわめて限定されている。
しかも 人間にとって、とくに死を身近に感じる人間にとって大きい関心事については、科学は まったく明確に答えることができない。
そう思えてきた。

長年 科学的であることを生きがいのようにして生きてきたのに、ここにきて 何がなんだかわからなくなってきた。
非科学的と称されるものに いま、すごく温もりを感じている自分がいる。
非科学的なものを軽蔑して生きてきたいままでは、いったいなんだったのか。


科学それ自体に、善悪があるわけではない。
科学を善にも悪にもするのは、科学を用いて ことをなす人間の問題である。
とりわけ人間を対象とする科学の代表、医学は、それを扱う人間がよほど慎重にならないと、その災禍は原爆の比ではないかもしれない。

普遍性を追求する科学は、普遍性からはみ出る個性を無視せざるを得ない。
人間は本来 個性的なものであり、したがって科学は、少なくとも本来個性的である人間を扱おうとする場合、その一部を普遍化できたにしても、人間の本質を解き明かすことは、永遠にできないのではないか。

わたしは人間である。
だから科学は、わたしの本質を、わたしが納得いくようには、解き明かしてはくれないであろう。
人間であるわたしを わたしが納得いくように解き明かしてくれることを、それではいったい 何に求めればいいのか。

非科学的なもの。
それを宗教とは呼びたくない。
もちろん 倫理や道徳でもない。
言葉の限界を超えているが、あえて表現すれば、摂理。
そうかもしれない。
宮澤賢治の世界とも、ちょっと違うような…。


摂理という言葉を知ったのは、下村湖人著 『次郎物語』を読み終えた中学1年のときだった。
あのとき わたしは、自分が北極星の廻りをぐるぐる回る万物のひとかけら、という意識を素直に持てた。
あのときの湧きあがるような悦びは、感覚では失っていても、記憶として体のどこかに残っていた。

あの感覚を呼び覚ましたのは、平成5年4月7日付けの天声人語に載っていた 金子みすゞの 「大漁」という詩だった。
理屈に合わないことが、なんでこんなに暖かいのだろう。
相違ということ、無用ということ、無名ということ…そんな理屈に合わないことを、ふわーっとやさしく包み込んでくれる。
こんなやさしい、こんな強い世界があったんだ、と、悦びで気分が舞いあがった。

それを、みすゞ教と呼ぶなら 呼べばいい。
それを、非科学的と言うなら、言うがいい。

ラジオ深夜便の佐野剛平さんは、「見えない道しるべ」と題して、こう言ってくれている。

 みすゞさんを好きな人 大好きです
 「万物の喜びと悲しみ」わかる人だから
 「ちっぽけな私」と思える人だから
 優しかった友が ゴーマンな人に なってしまう この時代
 分かれ道で みすゞさんが そっと 問いかけてくれます
 「どっちに行くの?」と
 みすゞさん!!と決めた人 大好きです


わたしは、決めました。
科学を目的にするのは、もう止そう。
科学は、人間が幸せになるために、利用するものだ。
非科学的と言われようが、構わない。
わたしは、みすゞさんが 「神」と呼ぶものと、ともに生きよう。
その 「神」とは、つぎの詩 『蜂と神さま』で、金子みすゞが指し示してくれている。


 蜂はお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 お庭は土塀のなかに、
 土塀は町のなかに、
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに。

 そうして、そうして、神さまは、
 小さな蜂のなかに。