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信号待ち

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ここでいう信号とは、歩行用だけれど、大きな交差点での歩行信号ではありません。
午後10時を過ぎたら 押しボタン式歩行者信号になるような、大きな通りと路地の交差点に設けられた信号のことです。
路地裏から車が出てくる可能性の薄い場所。
そういう場所で路地を渡ろうとして信号待ちをする人の、大袈裟にいえば行動様式が、とってもおもしろいです。

信号をまったく無視して、なにくわぬ顔で渡る人。
ちょっと左右をうかがって、心もち駆け足で渡る人。
長い赤信号を、イライラ顔でにらみつけながら待っている人。
足首をクルクル回したり上半身を左右に動かしたり、それでも気長に待っている人。
微妙だにせず、じっと前方を凝視して待つ人。

わたしは、ちょっと前までは 持って生まれた性格ゆえ、上から二番目か、まわりに信号待ちしている人がいる場合は 三番目のタイプでした。

いちばん上のタイプの人物を見ると、少々の納得と大きな憤りを感じていました。
いちばん下のタイプの人物に接すると、少々のさげすみと大きな羨望がありました。

いま わたしは、せめて上から4番目、できれば いちばん下のタイプになりたいナと思っています。
思っていますが できないので、ちょっとした工夫をしています。
標識柱か電信柱か歩車分離柵支柱か、とにかくしっかり つっ立っている垂直物に、どちらかの足のつま先を持たせかけます。
それも 出来るだけ高い位置につま先が付くよう、しかも 膝が曲がらぬよう。

つまり、ストレッチしているという満足感を代償に、辛抱強く信号待ちをする。
ちょっとしたトレーニング気分で。
まぁ、くだらないことですが…


鷲田清一著 『「待つ」ということ』に、こう載っています。

 現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。
 私たちは、意のままにならないもの、どうしょうもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。

鷲田教授の指摘は、なるほどと思いつつも、「そうはいってもねぇ」と、ちょっと口をとがらせたくなります。
わたしたち現代人は、納期とか効率とかに、はがい締めにされてきました。
‘ Time is money ’で突っ走ってきたのです。

ひとむかし前のパソコンのトロい立ち上りを、もう今の人は辛抱できないでしょう。
ことほど左様に、時間感覚は急速に ‘悠長’から遠ざかりつつあります。

それでも、「待つ」ことに対する感受性は 失われてはいない、わたしはそう思います。
待つことの豊かさ、気持ちよさ、おおらかさ、この感覚は失われてはいない。
そう思いたいです。


足首ストレッチでイライラをごまかしつつ 長い赤信号を待ちながら、あれぇおれって案外度量大きいかも…なんて ひとりよがりしているこの頃です。