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忘れられた日本人(直島に思う) その1

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宮本常一著 『忘れられた日本人』の一節 「世間師(しょけんし)(1)」に、つぎのような記述がある。
著者 宮本常一氏の故郷、山口県周防大島での 幕末のころの話である。


(幕府が長州征伐をおこしたとき、ほとんどの藩は理由をかまえて参戦しなかったが、松山藩は律儀にもばく大な軍費を捻出して参戦した。)
周防大島にも松山藩の侍がやってきて一度はこの島を占領したが、奇兵隊が救援にやって来ると数日のうちにまた完全に奪回してしまった。
そして何人かの捕虜が屋代というところの農家の牛の駄屋につながれた。
人々はめずらしがって、それをぞろぞろ見にいった。
伊太郎(この節「世間師(1)」の主人公の増田伊太郎)もその一人であった。
「みな気のよさそうな男でのう。おまえら打首になるぞォちうと、大きな声をあげてないて…。なァに捕虜は殺しゃァせんという事がわかっていたから、わしらみんなで捕虜をかもうた(からかった)のよ。みんな松山のあたりの者じゃった。おまえら、この島の家を焼いた仲間じゃろう、というと、手をあわせてちがいます、ちがいますちうてのう」
伊太郎は年をとるまでよくこの話をした。
この捕虜たちはその後旅費から着物まで与えられ伊予へ送りかえされたという。

うえの記述のあと、まだ島に伊予の兵隊がたくさんかくれているに違いないからさがせ、ということになって、大騒動になるくだりが描かれている。

この記述をなぜ引用したかというと、国家とかオカミとかの動向に右往左往する民衆の姿、右往左往しながらも無邪気に逞しく、ある意味では仏のように生きてきた民衆の姿が、このたびの大震災に遭った人々の姿、いや いまの日本に生きる ‘普通の’人々と重ね合わせて映ったからだ。

国家とかオカミとかを、どうこう言おうとしているのではない。
いつの世も、大多数の弱い立場の人間は、一握りの強い立場の人間の動向によって翻弄されるものらしい、ということだ。
だからこそ、一握りの強い立場の人間の正しいリーダーシップが、いつの世も問われるのである。

宮本常一については、あまり知られていない、と解説書に記されている。
そうかもしれない。
たしかに、同じ ‘民俗学者’という範疇でも、柳田国男や折口信夫ほどには知られていないだろう。
代表作 『忘れられた日本人』の題名のごとく、宮本常一自身が忘れられた日本人なのかもしれない。
が、わたしには、忘れられない日本人である。


わたしの父と同年齢の宮本常一という ‘旅の巨人’を知ったのは、宇高連絡船で宇野~高松間を足しげく通うころであった。
一大プロジェクト、瀬戸大橋の、測量調査が緒に就いたばかりのころだ。

宮本常一の膨大な著作のなかに、『私の日本地図』という15巻シリーズがある。
そのシリーズのなかの 「瀬戸内海Ⅳ~備讃の瀬戸付近」と題する巻(同友館版)を、新居浜の昭和通り登道にあった明屋(はるや)書店で買った。
いまでも明屋書店はあるのだろうか。

宇高連絡船で備讃瀬戸を頻繁に行き来していたから こういう題名の書物に興味を感じたのだろうが、この本は 観光案内的な内容からは程遠い、ドキッと胸に突き刺さるような字句や写真が詰まっていた。
直島(なおしま)は、しょっちゅう連絡船でそばを通った島なので 身近に感じたせいもあるだろう、ふんだんに挿入された 直島に関するモノクロ画像には、郷愁みたいなものを感じた。

連絡船で宇野を出港してまもなく、左手に直島が見える。
あの頃、禿げた島だったかどうか、現物の記憶が定かでない。

1916年(大正5年)、農漁業の不振で財政難にあった直島村は、三菱合資会社の打診した銅製錬所を受け入れる決断を行う。
銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスは、足尾銅山や別子銅山など各地で 山の木をすべて枯らすなど煙害を起こしていた。
三菱は、煙害の心配の少ない離島を探した末に、直島の北側に銅精錬所を建てた。
いまの、三菱マテリアル直島精錬所の前身である。

別子銅山の公害に悩んだ住友が、その移転先に選んだ新居浜沖の四阪島と、同じような経緯だ。
わたしが新居浜の社宅に住んでいたころ、労組の指導で軒先に金属板を吊るして、四阪島からの煙害をチェックしていたのを、懐かしく思い出す。
四阪島の場合、昭和51年にすべての溶鉱炉の火は消え、その火は東予精錬所に引き継がれたと聞く。

直島の北半分および周辺の島々の木々は、煙害でほとんど枯れて禿山となってしまった。
しかし直島は、三菱金属鉱業の企業城下町として一気に発展し、人口増加と豊かな税源、総合病院や映画・芝居等の娯楽など、瀬戸内の離島はおろか 香川県内でも有数の豊かな生活を手に入れた。

かげりは、精錬所の合理化が進む昭和33年を境にして、機械化による人員整理が相次いだころから 徐々に見えはじめる。
昭和42年の精錬所整備構想で移転ばなしまでに発展して、かげりは急速に現実化する。
移転先候補地、福島県小名浜(おなはま、現いわき市)との勝負には勝ったものの、労組としては屈辱的な合理化要求を飲まざるを得なかったのである。
そして 三菱のエコへの事業転換で、直島は またも大きな転換期に入る。

直島の東、指呼の間に、豊島(てしま)がある。
実は豊島は、かって三菱が 銅精錬所の煙害の心配の少ない離島として、直島より先に白羽の矢を立てた島である。
豊島は湧き水に恵まれ、大量の水を使う精錬事業には うってつけの島だった。
そのとき豊島の島民は、排煙で山が禿げたら湧き水が枯れる として、三菱の進出を拒んだ経緯がある。
(その辺の経緯は、四国新聞社 「新瀬戸内海論~島びと20世紀」に詳しい)

1990年(平成2年)、豊島事件が起こる。
産廃不法投棄が、遡ること16年間にわたって行われていたことが発覚した。
公害等調査委員会が調停に乗り出す騒ぎとなった。
この調停に基づき、直島でいまも廃棄物処理中である。

三菱直島精錬所は、1999年(平成11年)香川県の要請を受けて 豊島廃棄物の中間処理施設を敷地内に建設、精錬所の経営主体を銅精錬からエコリサイクル事業へと変換する。
その背景には、銅の国際価格の低迷もあった。

直島の島びとは、声をひそめて言う。
「産廃の処理受け入れ? あんた、ごみが来て喜ぶ人間がいると思うか」
それでも、精錬所と島は運命共同体。
精錬所に依存して暮らす島で、正面切って産廃反対とは言いにくかったであろう。

一方 直島の南側は、観光リゾート地へと変貌していた。

1960年代後半の観光ブームに乗って進出した藤田観光は、自然公園法による国立公園内での大規模開発制約や 石油ショック後の業績低迷を理由に撤退する。
そのあとを受けて、島民との融合を重視しながら 島を文化的な場所にしたいと乗り出したのが、福武書店(現ベネッセコーポレーション)である。
建築家 安藤忠雄氏も、一役買っている。

瀬戸内海の島々を舞台に開催される、現代美術の国際芸術祭。
2010年(平成22年)に始まって、3年に一度 開かれ、今年で二回目を迎える。
直島は、その中心的存在だ。
ただ、現代アートという異質なものが 保守的な土地に入って来ることに対する島民の反感を 払拭しきれているか、もう少し時間がかかるように思う。

直島は、戦後日本の縮図のような島である。
日本がバブル景気に入る前、瀬戸大橋の完成を見ずに亡くなった宮本常一氏は、この島の将来を 生まれ故郷のように深く案じていた。

「瀬戸内海Ⅳ~備讃の瀬戸付近」の〔五〕直島は、こう結ばれている。


 近世初期以来の島の変遷を見て来ると、とどまるところを知らぬ思いがする。
 この島は早く工場もおかれたところである。
 たしかにそれによって島民の生活の向上した面もあっただろうが、マイナスの面も多かったはずである。
 大事なことは生活の向上ばかりでなく、文化面の向上がもっと重視されなければならぬ。
 近頃工場誘致が流行のようになっているとき、こうした島の歩いてきた足跡は虚心になって検討して見てよいのではないかと思う。
 この島には幕末から明治にかけて、実に心のゆたかな時代があったようである。
 荘重な家、歌舞伎芝居小屋のあと、女文楽をはじめ、私の見落とした文化的なものがたくさんあるだろう。
 いま島人の心を結ぶ文化的なものがどれほどあるだろうか。
 もういちどこの島を訪ねてみたい。


よほどの歴史上の人物でない限り、人はみな、いつかは忘れ去られてゆく。
そして そのほとんどが、一生涯 脚光という陽のあたる場所からは程遠いところで、必死に逞しく 且つ前向きに愉快に、暮らして去っていった ‘忘れられた人たち’なのだ。

日本というこの国は、こういう ‘忘れられた日本人たち’によって成り立ってきたのであり、いまも この事実は不変である。


宮本常一氏がもういちど訪ねてみたいと言っていたこの島、いまの直島を、わたしも見てみたい。
(続きは、忘れられた日本人(直島に思う)その2へ)