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手の記憶

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朝、門(かど)を掃くとき使っている竹ぼうきで、思うことがある。

いま使っているのは、最上質とまではいかないが、そこそこの値の まぁ使いやすい箒だ。
一概に、品物の欠点ばかりを、咎めるべきではない。
分母に値段を置いて判断しないと、フェアではない。
使う人の背の高さやどこを掃くか など、使う側に問題がある場合も多いと思う。
だが やはり、いいものは値が張る。

以前、ホームセンターで、単価350円程度の竹ぼうきを買ったことがある。
10本まとめて買わなければならなかったから、`単価’という表現をとった。
毎朝掃いていると けっこう竹先が早く減るので、10本あってもいいか 程度の、安易な気持ちだった。

竹繊維がしっかり束ねられておらず ポロポロ抜け落ちたり、柄の節のささくれでトゲが刺さったり、竹繊維の束が柄にしっかりと固定されておらず 柄がズボ抜けしたり…

二本使って、あとは全部捨ててしまった。
こういうのは粗悪品であって、値段に釣られて それを買う方が悪い。

粗悪品とまではいかなくても、けっこういい値の竹ぼうきでも、満足できないものがある。
柄の太さがどうも手にしっくりこなかったり、竹ぼうきの重心が微妙にずれていて重く感じたり あるいは頼りなさすぎたり、竹繊維の束ね方が強過ぎて撓りが足りなかったり 逆に束ね方が弱過ぎて掃く力が足りなかったり…

‘いいもの’は、勢いのある神社や 庭で有名な寺の近くの、荒物屋さんみたいなところで手に入ることが多い。
たとえば、北野さんや伏見のお稲荷さんや妙心寺北門の近く。
多少 値は高くても 買い手がある場所、ということか。
良い品物が置いてある店の環境には、良いものを見分ける目、良いものを選んで使う文化が、育っている証拠であろう。

‘いいもの’とそうでないものは どこがどう違うのか、細かく言えばいくらでも挙げられそうだが、かっこよく言えば 「作り手の使い手への思いやり」の深さだと思う。

竹ぼうきのような いまの世にあまり必要とされなくなった道具は、思いやるべき使い手そのものに 良いものを見分ける ‘手の記憶’が、きわめて希薄なのだ。
そんな環境で、いい作り手が 多く育つはずがない。
その良さを見分けて使う文化が健在な限られた環境で、細々と生き続けるしかない。
だから こういう道具は、いいものは 値が張って当然なのである。


地下鉄などでよく見かける光景、親指一本でメールを打つ若者たち。
いま その光景に、ちょっとした変化がみられる。
ケイタイからスマホへ移って、親指の動きが変わっただけでなく、人差し指が頻繁に使われ出した。

‘いいスマホ’の条件も 多種多様なのだろうが、指の操作性は その大きな要因であろう。
彼らは、この一種 ‘手の記憶’で、求むべき商品を判断するにちがいない。
むかし 巷の荒物屋さんで、竹ぼうきを手にとって 実際にその辺を掃いてみて、‘手の記憶’で その良しあしを判断したのと同じように。


手の記憶、これも技である。
頭で疑問を持たない、理屈抜きの人の技である。

手の記憶は、なにも職人の専売品ではない。
見た目も大事だけれど、作り手と使い手は ものを通して、最後には手の記憶で勝負する。

時代が移り、技術が進歩しても、作り手と使い手のこの関係は、不変である。
「よいものを精一杯の力で作り出す」作り手と 「よいものと悪いものを区別して選択する」使い手、両者を 「作り手の使い手への思いやり」が繋ぐ。
作り手と使い手の、真剣勝負である。

その勝負の決め手は、‘手の記憶’であり続けるであろう。