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忘れ得ぬ人

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上の写真は、京都奥嵯峨・直指庵(じきしあん)の庵主だった 故・広瀬喜順尼の、在りし日のお姿です。
もう、半世紀以上前になりました。

いまは どうか存じませんが、広瀬尼のおられたころの直指庵は、京の駆け込み寺として有名でした。
奥嵯峨をさまよった末に訪ねてくる 心の迷い人の相談に気さくに応じられ、長年の尼僧生活から得た豊かな経験と 歯切れのよい話し口で、立ち直りのきっかけを授け続けておられました。

わたしが広瀬尼にお目にかかったのは、そんな有名な駆け込み寺になる前、昭和39年3月のことです。
広瀬尼が得度後 托鉢の厳しい修行を積みつつ寺を転々としながら この直指庵に入られたのが、昭和37年とのことでしたから、その二年後にお会いしたことになります。

あのころ 大学入試は、3月3日から5日の三日間でした。
昭和39年の早春は 京都にしては大雪で、入試会場だった立命館大学広小路学舎(いまはもうありません)への入場に遅刻しそうになってイライラするし、寒さで腹はピーピーだし、当時のわたしの体調は最悪でした。

初日の科目のうち 数学は、自信を持ってゼロ点でした。
あとの科目は 上の空で、なんにも覚えていません。
完全にノックアウト状態でした。

それから数日して、わたしは奥嵯峨をブラついていました。
自分としては それほど落ち込んでいたとは思わないのですが、わたしの姿を見ていてくださった広瀬尼のお目には、危なそうな青二才の足取りだったのでしょう。
「ちょっとお入り」と招き入れてくださったのが、直指庵だったのです。

もちろん当時、直指庵という名も知りませんでした。
ここが かの村岡烈女の余世を送った庵だということも、ずっとのちになって学んだことです。

広瀬尼は、両親から授かったこの身を自らあやめることが いかに親不幸であるかを、この世に生れいずる尊さを、こんこんと説いてくださいました。
のちに判ったことですが、広瀬尼のご出家の動機は、姉上の難産をみて 大きなショックを受けられたことだったそうです。

受験からの解放感をあじわおうと 奥嵯峨あたりをうろついていた自分としては、気恥ずかしく、はっきりものが言えず、それがかえって 広瀬尼の心配を大きくさせたもののようでした。
ほんとうに罰当たりな、でも わたしにはこの上なくラッキーな出会いでした。

そののち 二度、直指庵を訪ねました。
一度目は、入試結果の報告に。
二度目は二年後に、広瀬尼に瑣末な悩みを聞いていただくのが目的で。
広沢池から直指庵を目指して竹藪の嵯峨野を歩いて行くと、庵に着くころには もう、しょうもない悩みなど どっかへいってしまって、広瀬尼の歯に衣着せぬお話に 心底愉快な心持になって、暇乞いするころには「こんどは○×さんと一緒にたずねにきます」などと約束して、お別れしたものでした。

その後 京都を離れたわたしは、すっかり直指庵が頭から消えていました。
日々の忙殺が、時の止まったような直指庵を追いやってしまっていました。

新住職入山で直指庵を出られた広瀬尼は その後、昭和55年に大原野の皎月庵をひらかれ、4年後の3月に胃がんが悪化して入寂されました。
83歳でした。
そのことすら、わたしは ずっとのちになって知った恩知らず者です。

ふっと広瀬喜順尼のことが思いだされました。
わたしにとって広瀬尼は、忘れ得ぬ人です。