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憲法9条を考える

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南九州に大きな被害をもたらした台風4号が日本列島の南を掠め去った 15日の夕べ、京都は 午前中のいやーな暑さとは打って変わって涼風の宵となり、まちなかは 祇園祭の宵々山に どっと人があふれ出しました。
ゆかた姿の若い男女の群れが、晴れやかな顔で華やいだ会話を咲かせています。ほほえましい光景です。

天災の少ない京都は、なんて幸せなんだろう。いや、天災だけではない。先の戦争でも、大都会で京都だけは大きな空襲を受けなかった。
だから、「日本に京都があってよかった」 などというキャッチフレーズで人々を京都に誘うことができるのだ。
こんな幸せな光景が、あと何世代続いてくれるだろう。
いつまでも続いて欲しい。 そんな感慨を抱いて、ひとり 烏丸通りを歩いて帰りました。

その翌日のお昼のテレビに、新潟にまたも大きな地震があったとのニュースです。
台風も地震も、なにか天地の気まぐれだけではないような気がします。
天地の荒々しい恵みを畏れながら祈りながら享受してきたはずの本来弱い人間が、この地球の間借り人であるにもかかわらず、このところ あたかも主人のように振る舞っている。
弱者としての自覚を忘れかけている。
いま、天の神、地の神が、この思い上がった人類という生き物に警告を発しているのだ。
そう思えてなりません。

その思い上がりの頂点が、最悪の人災、戦争でしょう。

社会人になりたての頃、尊敬する先輩から 一つの教えをいただきました。
「お客様との話題に 政治と宗教は禁物だ」 と。
もともと そのどちらにも さほど興味がなかったせいもありますが、これまでずっと お客様との会話だけでなく 日常の会話にも、この先輩の教えを守ってきました。
そして今までは、この処世術は間違っていなかったと思います。

ただ、そういう処世術、少なくとも “政治アンタッチ” がいままで有効だったのは、60数年前のあの戦争で犠牲になった あまたの先人の無念のお陰であったと、最近 強く感じます。
あの無念の思いが、戦争は二度とすまいとの焦げるような思いが、だんだん通じなくなってきたのではと思えるからです。
ノーモア・ヒロシマも、しだいに声が遠のいていくように思えるからです。

私のような 本来 “政治アンタッチ” 的人間が、憲法を意識しなければならないということは、日本のいまの政治が不健全な証拠です。
日本人と憲法の間に、不幸な関係が生じていることを意味しているのです。

このコラムの或る読者から、指摘をいただきました。
まず、マックァーサーに代表される戦後アメリカ占領政策に対する認識が甘すぎる というご指摘。
ついで、反戦の根拠が感情的過ぎる というご指摘。
この2点について、(あの尊敬する先輩の教えを敢えて破って)私の思うところをお話したいと思います。


憲法9条を、改めて記します。

【第9条】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


この簡潔な条文は、 「放っておいたら戦争をしでかす」人間に 「戦争をさせないため」に存在することは、誰もが認めるところです。
2項は、「どうやったら人間に戦争させないようにできるか」の明解です。いくら気の短い人間でも 素手では戦えない、と争いを避けるでしょう。
2項こそ、「放っておいたら必ず戦争をする」 人間に 「戦争をさせないため」 のブレーキなのです。

ここで、根源的な共通の認識を確認しておかなければなりません。
それは、このコラムを読んでいただいている方は 「戦争はいやだ」 と考えていらっしゃるということです。
あえて 「戦争は悪いことだ」 と表現しません。
「戦争は必要悪だ」 と考える人でさえも、「戦争はいやだ」という認識は一致していると判断します。
この判断が間違っていると、話はもう前に進みません。
でも 世の中にはいろんな人がいて、 「戦争が好きだ」 という人も実際にいるのです。
「軍隊が好き」という人は結構います。ここでは、こういう人は例外ということで、話を進めます。

ところで、自民党政調会の改憲案は、1項は残し 2項を削除して新たに自衛軍の創設を明記しよう というものです。
世界中の軍隊が普通にできることが(世界の非常識な)憲法9条の制約でできないのが今の自衛隊であり、それを改めて他国と同じように独立国としての体裁を整えるというのです。民主党の党首である 小沢一郎氏も、口癖のように 「普通の国」 を唱えています。
「世界中のどこの国を探しても、国防を放棄している国なんて一つもありはしない」 と言わんばかりです。


さて、前述の2点のご指摘に話を戻します。まず、戦後アメリカ占領政策について。

私は歴史が好きです。最近は日本の近代史に非常に興味を覚えます。
ことに 終戦間際の日本に興味があります。
それは自分の年齢と同じ歳月を経てきた日本の原点だからです。
マックァーサーのことも GHQのことも、満足ではありませんが、いろんな資料を読み漁りました。

そこで得た私なりの日本国憲法GHQ制定の解釈は、
『占領軍による “お仕着せ” の日本国憲法は、戦勝国であるアメリカが 戦敗国である日本を 二度と再び反抗する気にならないほど徹底的に軍事的に無害化することに重きを置いたものであった。日本は戦争に負けたのであるから、これは当然のことであろう。
ただ、アメリカの極東軍事戦略として 日本をアメリカにとって最も好都合な “従属国”にしようとしたにもかかわらず、戦後日本を平和主義的に再建する仕事を担った連合国最高司令官マックァーサーも 日本国憲法の起草に実際に携わった GHQ民生局のケーディスら担当者も、自らが占領した地に ひとつの理想の種を埋め込みたかったと受け取れる』
というものです。
日本国憲法は、もともと 「理想の平和憲法」 だったと 私は解釈しています。

朝鮮戦争勃発の1950年、GHQは 自衛隊の前身である警察予備隊を発足させます。つまり、 「後方支援部隊」 として日本軍を目的限定的に再建することを決めました。
平和憲法と自衛隊、発令者であるアメリカからすれば戦略的に何の矛盾もない この二つの制度が、その後 いまに至るまでずっと、日本の施政者を、日本国民を、 「平仄の合わない第9条」 で悩ましつづけているのです。

この 「自衛隊と憲法のねじれ」 については、内田樹(うちだ・たつる)のホームページ
神戸女学院大学文学部総合文化学科・内田樹の研究室』 2001年5月6日付けの日記に記された憲法論に 私は賛同します。彼は このねじれを 肯定的に捕らえています。


二つ目のご指摘、反戦の根拠が感情的過ぎる ということについて述べます。

反戦は 想像力です。想像力の乏しい者に、反戦感情は湧いてきません。この想像力を 感情的だと非難されるならば、もうなにも言うことはできません。

12年前の湾岸戦争を 思い起こしてください。
お茶の間のテレビに送られてきた湾岸戦争の映像は、まるでシューティングゲームを見るかのようでした。
あの映像を捉えているモニターの先に、おびただしい血が流れ 悲惨な生き別れがあることを、痛みとして共有できましたか。
多くの方が、テレビのスイッチを入れている間だけの 希薄な現実感しか抱かなかったのではないでしょうか。相手の痛みを理解できない無感情な状態、私のいちばん嫌い恐れる状況が、あの湾岸戦争でした。

くり返します。反戦は想像力です。
戦争体験のない者が 「戦争はいやだ」 と主張できるのは、想像力しかないじゃないですか。

感情的になりました。また “感情的過ぎる” とのご指摘を受けそうです。この“感情的”ということで、このコラムの落ちをつけることにします。

私は、性格が感情的な人間です。すぐカッとなります。
カッとなると ことの善悪・緩急の見境なく 自分の思っているのと全く違う方向へと突っ走ってしまうことが、往々にしてあります。
自分のことを引き合いに出して言うのも気が引けますが、日本人の多くが私に似た性格を持ち合わせているのでは ないでしょうか。
戦前の日本人が、この短気さゆえに 大きな誤りを犯してしまいました。そういう日本人の気質からして、憲法9条は、どうしても必要です。
「放っておいたら必ず戦争をしでかす」 人種 日本人には、9条 ことに2項の足かせが必要なのです。


最後に、バカにされるのを覚悟で申します。

憲法9条を 日本の 「武器」 にしませんか。
世界でただひとつ、 「日本は “丸腰” で平和をとことん希求します」 と、世界に向かって 堂々と宣言しませんか。
今のように僻んでいては、若い人たちに希望を持ってもらえないじゃないですか。