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湖北の十一面観音さん

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「すっくとお立ちになっている十一面観音さまというものは、それはそれは美しく、何とも言えず優しいものでございます。十一面観音をごらんになったことが、おありでございましょうか」
「十一面観音?」
「はい。十一の仏面をお持ちの観音さまでございます。十の仏面を頭にお載せになって、本当のお顔と合せて、十一面になるのもありますし、頭に十一の仏面をお載せになっているのもあります。そうした観音さまが、この湖畔にたくさんございます」
「ほう」
「有名なものも一体か、二体ございますが、その多くが余り世間には知られておりません」

これは、井上靖の著書『星と祭』に登場する十一面観音さんの、さわりである。
主人公の架山は、先妻との間に生まれた十七歳の長女を、琵琶湖竹生島の近くで起きたボート転覆事故で亡くした。
遺骸は上がらなかった。
冒頭の会話は、転覆したボートに同乗して同じく行方不明になった男子大学生の父親 大三浦老人が、架山に話しかける場面である。


『星と祭』、この小説で 井上靖は、大切なものを自分の手の届かないところへ失ってしまった喪失感を どう納得させていくか、このテーマを、琵琶湖と観音像のある風景、ヒマラヤの素朴で悠久の自然の風景、とを対照させながら、すらりと 染みとおるように 描いている。

諦めきれずに祈り続ける殯(もがり)すなわち「祭」、ヒマラヤ山麓を皎皎と照らす月が示唆する永劫(えいごう)すなわち「星」。
悲しむこと、祀ることの果て、これらは 最終章で、月光のもと、竹生島湖上での八年目の葬儀として、融合昇華される。
湖北のたくさんの十一面観音さんに見守られて・・・

それは、大三浦老人の言葉で括られた。
「もう二人は、この湖の中にはおりません。神になりました。仏になりました。もしかしたら天に上って、星になったかも知れません」


仏像に興味を抱く者が、この『星と祭』を読んで、湖北の十一面観音たちに惹かれないほうが おかしい。
だが、わたしの`湖北の十一面観音さんめぐり’は、『星と祭』に登場する 湖北の十一面観音のうち、三体しか まだ拝していない。
いずれ四十体は と考えているが、信仰心から動いていない わたしの`巡歴’は、おそらく実現できないだろう。
正直 わたしは、渡岸寺(どうがんじ)観音堂の十一面観音像を拝して、あぁこれで十分だ と諦めている。

人は 悩みや悲しみのあるとき、観音さまに会いたくなる。
三体の観音像で満足している自分は、悩みや悲しみが さほど深くないから、と考えられなくもない。


それにしても、長浜市高月町にある渡岸寺観音堂の この十一面観音さんの後ろ姿は、なんとも美しい。

オシャレな高結い髪型の宝髻、その上に乗っている頂上化仏の それに劣らずしゃれた髪型、両後ろ肩を這う三つ編みの裾、後頭中央に配せられた暴悪大笑相の小面は 大きな髪飾りのよう。
頭上ぐるりと配する二段の小面は、まるで宝冠みたい。

肉付きのいい肩を蓋う薄衣は、その裾長い両端が、少し前目に垂らした与願印の右手と 花瓶の口部をそっとつまんで持つ左手とを 巻くように沿って、得も言われぬ美しいカーブを描きながら、蓮肉上まで垂れさがる。

ちょっと太めの上膊は、アクセントよろしく かっこいい腕釧で、きりりと。
肩の薄衣と幅狭の袈裟懸け衣だけの裸の背中は、腰までまっすぐに伸び、腰骨で止まっている衣の横線を境に、下半身をかなり大きく右にひねっている。
その艶の品の清らかなこと。

こんな美しい後ろ姿の観音像は、見たことがない。
国宝級の観音像で これだけまじまじと後ろ姿をじかに拝せる仏像は、たぶん他にないのではないか。

よくぞ今の世まで きれいなお姿で残ってくだされた。
遠く戦国時代、姉川の合戦の戦火から、観音像を必死の思いで運び出し、土中に埋めてお守りしてくれた村人達に、敬意を込めて感謝したい。


渡岸寺観音堂の十一面観音さんに限らず 湖北の観音たちは、村落の人々の手により守られ、いくつもの戦乱や天災をくぐり抜けて、今なおこの地にしっかりと息づいている。
ありがたいことである。