安全性追求の果て |
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こんなことを書いたら 機械屋の名に恥じる、かも知れません。
機械メーカーのホームページを間借りするブログには ふさわしくない、と謗られても仕方ありません。 安全性を追求することは、機械メーカーの最優先課題です。 その安全性に、いちゃもんを付けるようなことを
言おうとしているのですから・・・ まあ、心配性の初老の男の
ただのひとりごと、とお聞き流しください。
結論から申します。 安全性追求の果ては
まさしくSFの世界、人間がコントロールするはずのロボットの いいなりの社会かも・・・ ほんとうの安全は、危険の認識なくしては
あり得ない、と・・・
わかりやすい例で考えます。 自動車という日本語は、おそらく automobile
の翻訳でしょう。 当時の翻訳者の頭には、人力車あるいは馬車があって、その対比で生まれた言葉だと思います。
自動車とはいえ、20世紀に人生の大半を過ごした
わたしの頭には、それを操るドライバーが必ず存在します。 だから、完全な‘自動’車ではない。 わたしのような人間の頭では、自動車の安全性追求の果ては、シートベルトあるいはエアバッグ止まりでしょう。 つまり、ドライバーである人間は失敗を犯すもの
という前提があり、失敗(事故)をおこした場合に
その損傷度をできるだけ少なくする、という発想です。
ところが最近、自動ブレーキさらには自動走行と、自動車の人間離れの技術が進んでいます。 行き着くところ、ドライバーはドライバーでなくなり、自動車という乗り物の
ただの乗客となります。 自動車が、まさしく‘自動’車になるのです。 これは、少なくともわたしの頭では、自動車の範疇外の乗り物です。
このような乗り物、‘自動’車は安全か。 そうとも言い切れません。 おそらく
センサーだらけのコンピュータ制御を駆使した乗り物でしょうが、センサーやコンピュータが故障しないという保証はないからです。
そして一番の懸念は、自動車におけるドライバーの役割を担うモノが、乗客である人間にはブラックボックス、つまりチンプンカンプンである、ということです。
ひとむかし前は、ボンネットを開ければ
不具合個所をだいたい読めましたが、いまは さっぱりわかりません。 それでも
わたしの範疇の自動車は、ドライバーの責任とメーカーの責任とが分担しあう乗り物です。 だから、「自動車運転免許証」なるものが
存在するのでしょう。 また
そこに、自動車としての魅力もある。
ところが‘自動’車は、すべての責任が車側、すなわちメーカー側にあります。 保険保険で縛り倒した乗り物かも知れません。 いずれにしても、乗客である
名ばかりのドライバーは、すべての責任をメーカーに問わざるを得ない。 その責任全部を、はたしてメーカーが背負えるのか。
恐い話ですね。 恐いついでに、もうちょっと・・・
自動車におけるドライバーの役割を担うモノ(人間の姿をしていなくても、ロボット)を、頭のいい‘悪い人’が
いたずらするかも知れません。 ひょっとすると、ロボットが人間の感情に相当する能力を備えて、ドライバー(人間)に逆らうかも知れません。
自動車の安全性を追求した果てが、このようなSFの世界にならないとも限らない。
例えを、もう一つ・・・ 子供の小刀教育という話です。
鉛筆を削るのに、小刀を使わせる小学校がありました。 その小学校の校長先生は、少々の怪我はしかたない
安全をまっとうに理解するには 怪我は付きものだ、というお考えでした。
これに反対するPTA役員が出てきました。 指でも切ったらどうするんだ
責任とってくれるのか、と。
結局、モンスターママの勝利で終わりました。 せっかくの小刀教育でしたのに・・・
日本語の「・・性」という表現は、「・・風」というニュアンスで使われることが、多々あります。
卑近な例ですが、「さぬきうどん」という表示は、香川県産のうどん以外に使ってはならないことになっているそうです。 そこで「さぬきうどん風」という表現が生まれました。 さぬきうどんまがい、これなら
香川県以外のどこで作ったうどんに表示しても、不当表示防止法に抵触しないというのです。
「安全性」という表現にも、見掛け上
安全に見える、そういう「安全まがい」が横行しているのも、事実です。 そして
こういう「安全性」を追い求めるあまり、「操作性」を無視せざるを得ないのです。
この矛盾を完全に解決しようとすれば、人間がほんとうのオペレーター(ドライバー)であってはいけません。 人間は、製造ラインから離れたオペレーター室に避難しなければなりません。 製鉄ラインのように。 機械は、ますます複雑になります。
さて、わたしどもが扱っている製麺機械では、まだ製鉄ラインのような無人化装置には至っていません。 いずれ、無人化製麺ラインも登場するかもしれません。 はたして、ペイするかは、疑問です。
製麺機械のような食品機械は、人間の五感に依存する要素が、他の産業機械より大きいです。 人間の五感に依存する要素を機械化するには、けっこうなコストと嵩を要します。 たとえ
これを初期実現したとしても、人間の移ろいやすい趣向に
付いていけるかどうか。
無人化製麺機械が実現できるかどうかを、ここで議論しようとしているのではありません。 製麺機械を安全に操業するには
どうしたらいいのか、そのことに深く思いを至らせたいのです。
香川県に工場をもって行っただけで、ほんとうのさぬきうどんを作れないのと同様、安全性を高度に追求しただけで、製麺機械のオペレーティングが安全になる、とは思えません。 ‘自動’車と同様、完全無人化製麺ラインを構築できるのであれば、話は別ですが。
実際に小刀で鉛筆を削ってみて
ヘマして指を傷つけて
痛い!と感じなければ、危険という認識を身をもって感じなければ、ほんとうの安全は得られない、そう思うのです。 操作がしづらくなってもお構いなく
危ないものに蓋をして、自分自身が危ないと判断するのでなく センサーが教えてくれて、それで ほんとうの安全だと言えるのでしょうか。
安全性ではなく
ほんとうの安全は、危険の認識なくしては得られない、わたしは
そう思います。
安全性にがんじがらめになりつつある製麺機械を前にして、なにか間違っているように思える
このごろです。
取り越し苦労でしょうか。
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