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技術の進歩と人間の幸福

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技術の進歩は、必ずしも人間の幸福をもたらさない。そう、このごろ強く感じます。

以前勤めていた会社に同期入社した 松並壯(まつなみたけし)という友人が送ってくれた技術士会報に、次のような序文が載っていました。


“技術は人を驚かすためにあるのではなく、人を安らげるためにある”
25年前、山田君が私にメモってくれた。
技術士たる技術者にとって、技術とは一体何であるのか?と考えるとき、この言葉は忘れてはならない心であると私は信じている。

山田延彦君は、浦賀重工業㈱と住友機械工業㈱との合併会社、住友重機械工業㈱に 一期生として同期入社した。
現在、本人曰く 「中小企業のおっさん」をされている(製麺機械製造工場の経営者である)。
山田君の手掛けた製麺機械で作られた、私の大好物のウドンやラーメンは 彼の胸のうちにある技術に対する思いによって、きっと美味しいものであるに違いない。

驚かされるばかりの技術革新や先端技術の開発
そこにはもはや、人の心を考えるゆとりなど残されているとは思えない。
近年、産業革命以後、限りある化石燃料をベースに、人間のエゴに発した「より良き生活」を 求め続けたがために生じたと思われる地球環境の問題、それに対する技術開発が議論されている。
しかし、それは結果に対する反応であり、根本的な解決策は見出しがたい。

これら課題を生ぜしめる要素技術に、山田君の技術に対するこころの問いかけが 必要なのではなかろうか?
“人を安らげる技術”は、旧くて新しい、かつ永遠の課題であろう。



松並君にそのようなメモを渡したか、いまは定かではありません。
でも、昭和60年代後半からの あの高度成長時代を背負って生きているような浮かれた日々を送りつつも、技術の暴走に対する一種の怒りを、漠然とした不安を伴いながら感じていたのは事実です。

いま、あの時代には考えもおよばなかったコンピュータの普及は、30年前とはまた異質の不安を 感じさせます。
IT革命は、18世紀後半にイギリスで始まった産業革命に匹敵、いや それ以上の変革かもしれません。
その、人間の真の幸福に対する功罪は、ずっとのちのちの世に下されるのでしょうが、ITと抱き合わせの「グローバル化」に、本能的な儚さを感じてしまうのです。

アインシュタインが原爆に対して「科学者の責任」を叫んだとき、そこにはまだ見えるものがありました。
優れた人間の良識が、混沌とした世を救ってくれそうな気がしました。
でも、いまやあらゆる分野に張り巡らされた情報網は、ひとつ間違えば どこまでもどこまでも 世界中を混乱に陥れてしまいそうに思えてなりません。もう、限りある賢者たちでは どうしようもないのです。
取り越し苦労なのでしょうか。

科学も政治も経済も、この世に生きている者のためのものです。
死んだ者や 思い出の中に生きているものには、見向きもしません。
一方、芸術や 特に宗教は、死者も含めて生きとしいけるものに思いを至らすのです。
技術いっぱいの “もの”で溢れかえって、息が詰まりそうな状態から脱却するヒントは 芸術や宗教にあるのかもしれません。