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行き詰まった資本主義社会

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朝日ジャーナルを小脇に抱え マルクスの資本論をブックバンドで結わえ肩流しして、 大学の構内を闊歩するのが 流行った時代がありました。40年以上も前のことです。
闊歩している当人がマルクスに熟知していたかは疑わしいですが、マルクスを読むということ自体が ひとつの進歩的象徴でした。
私も流行に追随して 資本論を図書館から借りた覚えはありますが、何が書いてあったかほとんど覚えていません。
ただ、「搾取」 という漢字の読み方を、この書物の字面から知ったと記憶します。

搾取という言葉が死語に近くなったいま、マルクスの資本論で説く 「資本主義社会の終焉の先にある」のが共産主義社会であるとは、もう誰も考えないでしょう。
でも、資本主義社会の終焉とまでは考えなくても、今の資本主義社会に行き詰まりを感じてられる方は 多いと思います。

資本主義社会を簡潔に理解するなら、生産手段を私有する資本家が 生産手段を持たない労働者を商品として(賃金という形で)買い取って商品生産を行なう生産様式ということになりますが、戦後の日本における資本主義は、少し違った道を歩んできました。

戦後まもなくの日本では、財閥解体や農地改革によって 日本中に大金持ちがいなくなり、不労的な 「生産手段を私有する資本家」 の代わりに 野心満々の優れた起業家が現れて、 経営者として会社を発展させ 徐々に財を蓄えて、「経営者=資本家」 という 日本独特の 「株式会社」 を形成していきました。
松下電器の松下幸之助、本田技研の本田宗一郎、ソニーの井深大は、その代表です。
こういう優れた勤勉な “ものづくり屋” に引っ張られて成長してきた戦後日本の資本主義では 純粋な 「資本家」 というかたちは見えにくく、 もっぱら 「生産過程で生み出された剰余価値(利潤)を どのように分配するか」 をめぐっての労働争議に 日本の資本主義社会が抱える問題が集中してきました。
そこには 「資本家」 だけがクローズアップされることは稀であり、「会社をこよなく愛する経営者」と 「働きたいまじめな労働者」 が多数存在していました。
幾多の労働争議を経て、経営者も労働者も大きく歩み寄り、 高度成長経済の恩恵も受けて「中流意識」 の労働者が主流の世の中を生み出してきました。
まじめに働いておれば、ほどほどの老後を送ることができる。そういう安心感を抱くことができたのです。

これを大きく変えたのは、コンピュータであり 膨大な情報処理能力を有するコンピュータを通しての グローバル化であり グローバル化の落とし子、生活感覚ではとても理解できない額の金が行き交う 「マネーゲーム」 です。
「金転がし屋」 の投機資本家と 「保身に汲々としている」 雇われ経営者、そして 「まじめに働くことがアホ臭く」なってきた労働者。

落語家・立川談志氏が テレビドキュメンタリーで語っていた言葉が、印象に残ります。
「一所懸命汗して得た1万円札と、マネーゲームでちょちょっとキーを叩いてはじき出した云億円のうちの1万円札と、ちゃんと区別しなきゃ やってられねーよ。」

戦後日本の資本主義社会がなんとかうまく機能したのは 人が 「お金というものは、辛苦の労働の対価である」 と信じられたからではないでしょうか。
「労働よりも効率のよいお金儲けの方法がありそう」 と思うようになった時点で、資本主義社会は行き詰まりです。
零細企業のおっさんを悩まし続けた 「金がないのは首がないのと同じ」 という いやーなフレーズも まだ何とかできそうなところの 「金」 であったから効き目があったのであって、宝くじの遥か上の巨額が 少年のような若者のマウス操作によって 打出の小槌のごとく稼ぎ出されると、「もう やーめた」 となってしまいます。
この心理は、大きいです。

たしかに、コンピューターに関わる産業が成長してきています。いまや日本の経済を動かしているのは、この分野の産業でしょう。
そしてこの分野の産業には、若い人たちを惹きつける 「かっこ良さ」 があるのも事実です。

先日、とある喫茶店で稽古ごと仲間の若者と雑談していました。
話題がヒットラー率いるドイツ軍の軍服に及んで、彼は「あのかっこ良さが、ナチスの原動力だったんじゃないかな」 とつぶやいていました。一理あると思います。
すべてのことにおいて 「かっこいい」 ことがいかに重要な要素であるか 怖いことですが、よく理解できます。

では なぜ、コンピューターに関わる産業が かっこいいのでしょうか。
汗して労働することがかっこ悪いと思うことの、裏返しでしょうか。
「ちょちょっとキーを叩いて」云億円をはじき出せそう、そんな幻想が「かっこいい」と感じる所以なのでしょうか。

「かっこいい」には、恐るべき罠があります。
コンピューターがもっとも得意とする バーチャルリアリティーそのものなのです。
コンピューターは、人に便利と快適さという豊かさは与えても、人を幸せにはできない。私はそう確信します。
だから私は、コンピューターに振り回されている現在の資本主義社会に 行き詰まりを感じるのです。

資本主義は 資本の蓄積がベースであり、資本の蓄積として 貨幣の形をした 「金」 がもっとも有効であり、したがって資本主義が一種の 「拝金主義」 であることは否めません。
良し悪しは別として、ここでは 「金」 に重みがあります。
あるときは首よりも大事な 「金」 なのです。
その 「金の重み」が、コンピューターを手段とした 「マネーゲーム」 で失われつつあるのです。
まさしく、資本主義社会の行き詰まりです。

では、どうすればいいのか。

資本主義社会は、ビジネスで動いています。
そのビジネスは 本来プロセスであり、負けとみえるプロセスも成長に必要な条件なのであって、勝ち組・負け組と かんたんに決め付けるものではありません。
それが、バブル崩壊後の不景気以降 短期間の結果のみが求められ、人間の生き方にも 短期決戦を強いる風潮が強くなりました。
目の前に続く、気の長いプロセスというものを支え、耐えてゆく力というものが衰退しているのです。

いま、政府がなすべき仕事は、 「正直者がバカをみない」 世の中にすることです。
弱肉強食を推し進めることでも、 「美しい国ニッポン」 などと抽象的な標榜をかかげることでもなく、声のデカい者や べたずるの奴が得をする世の中にならないよう、コントロールすることなのです。
そうすれば、おのずと資本主義社会は正常に戻るでしょう。