YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ

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兄が、ひとり いました。
わたしが ゼロ歳のとき、三歳で亡くなりました。
昭和20年10月15日のことです。


母は、兄のことを、ひとことも語りませんでした。
父は、深酔いしたときなど たまに、敷居に目を据えて こういいました。
カラのマッチ箱を敷居に並べて、よう遊んどった。
そして、決まって こう続けました。
ペニシリンさえ 手に入ってたらなぁ。

終戦直後、進駐軍流れのペニシリンが、目をむくほどの高額ながら、ヤミで手に入ったとのことです。
のちに 祖母から聞いたのですが、兄は腸チフスに罹って 隔離病棟に移され、母にすら看取られずに 死にました。


仏壇に手を合わすとき わたしは、「ねんぴかんのんりき」と唱えます。
そのあとに、「じこうどうじ」と、つけ加えます。
滋耕童子、兄の名前 「耕滋」をひっくり返して 童子を付けただけの、兄の戒名です。

「ねんぴかんのんりき じこうどうじ」
こう 口に出して唱えると、兄のぶんも もらえて、あともうすこし 元気で過ごせる気がいたします。

兄の小さな位牌を、もうちょっと 両親の位牌に近づけてあげました。