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旅立ちの春

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「大石さんという方が見えています」
そう取り次ぎを受けたのだが、どなたなのか 見当がつかない。
「松並さんのご紹介で だいぶ前に 見えられた方だと思います」

取り次ぎの水野さんの記憶力には、いつも助けられている。
松並さん というのは、畏友の松並壯君のことである。
ようやく思い出した。

松並君の故郷の同級生の娘さんを、同級生である父親が亡くなったあと、松並君が父親がわりのように接してきた。
その娘さんのお嬢さんが、京都の大学に入学して、下宿先を探しているので、相談にのってあげて、とのことであった。
4年前のことである。

その娘さんが、お嬢さんを連れて 挨拶に見えたのである。
この春 大学を卒業して、地元の工作機械メーカーに就職が決まり、数日後に故郷に帰ります、という。
短い立ち話であったが、厚意と礼節は 十分に伝わってきた。
ちゃんと下宿先が見つかったのかどうかの確認も、あれから4年経っていることも、そういうことがあったことすら、失念している自分が恥ずかしかった。

あれから4年、お嬢さんのこの4年間は きっと、充実した確かな歩みだったにちがいない。
自分のこの4年間は いったい、と考えかけて、この母娘の確実な歩みの喜びと礼節の方に、気が移った。
4年前に、ちょこっと相談にのってあげただけである。
そのわたしを、4年後わざわざ訪ねてきてくれたことが、心からうれしかった。

恩を忘れず 礼を尽くす、この 人間として いちばん大切で 当たり前なことを、わたしは忘れかけていた。
大石さん母娘の後ろ姿を見送っていて、このことに思いが至った。

彼女たちの後ろ姿を追うように、沈丁花の香りが流れてきた。
喜ばしい、旅立ちの春である。