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残春

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日曜日の夕方、シネコンの小ぶりなスクリーンには 空席が目立ちます。
『サクラサク』、いい映画のはずなんだがなぁ と、くだらない客数下馬評に 少々心が揺れます。
杞憂ではありましたが・・・

久々に映画館のシートに坐る。
決まって 一番後ろの真ん中あたり。
この薄暗がりが なんとも心地良い。


あると うっとうしくて、ないと 魂のよりどころを失ったような わびしさを感じるもの。
家族団欒って、そういうもののようです。
家族の中に年寄りがいる家庭は、良きにつけ悪きにつけ、家族団欒に一味違った雰囲気をかもします。

砂を噛む という表現がありますね。
幼いころの夕餉には、文字通り 砂を噛むような思い出が残っています。
両親の顔色をうかがって、なにを食べているのかさえ 覚えていない夕餉。

たまに すき焼きが出ました。
すき焼きの夕餉は、家族がみな 機嫌のよいときだった気がします。
すき焼きだから 機嫌が良かったのか、機嫌が良いから すき焼きだったのか。

雲行きの怪しい夕餉どきを なんとかとりなしてくれたのは、祖母でした。
祖母のひょうきんなひとこと、祖母のおどけたようなしぐさ、それが 頼みの綱でした。
険悪な夕餉時の、救いでした。

家族団欒を飢餓状態的に望んでいたはずのわたしが、気がつけば自分の家庭を、幼いころの自分の家庭に似たか寄ったかの 険悪な雰囲気に追い込んでいました。
情けないことです。
あのころに、「もっと身近なはずの家族を、しっかりと見つめられているだろうか」と問う 『サクラサク』を観ていたら、もう少しまっとうな家族団欒を作れていたかも知れません。
幸せなことに、自ら蒔いた険悪な雰囲気の家族を救ってくれたのは、やはり 年寄りの、義母でした。

いま、わたし自身が、わたしが幼かったころの祖母や 腑抜けのひょうたん状態のわたしだったころの義母の年齢に、近づいています。
祖母も 義母も、最期まで しゃんとした人で、藤竜也演じる俊太郎がときおり見せる 老人性の醜さの一切感じられない、年寄りでした。
それでいて、俊太郎のように いつもポジティブで、かわいらしかった。
なによりも、家族の縫い糸であった。

『サクラサク』は、わたしにとって たいせつな年寄りを 思い出させてくれる、そして 目指す 「じいちゃん像」を描かせてくれる、ホッコリといい作品です。


この映画は、さだまさしの短編小説を映画化したものですが、“家族のロードムービー”であり、小説では味わえない映像美を堪能できました。
ことに福井県の、一乗谷朝倉氏遺跡、勝山白山神社、あわら温泉、美浜町瑞林寺など、いくどとなく訪れた場所がスクリーンに映し出されると、拍手したいような気分になりました。

エンディングに流れた さだまさしの主題歌 ‘残春’が、いまだに耳に残っています。

  ・・・与えられし いのち
    かなしきも またよろし
    若さを 嗤わず
    老いを 恨まず