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空に星があるように

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京大北門前に、進々堂という喫茶店がある。
昭和5年創業というだけあって、店構えから 机やカウンターなどの つくりもんも、年季が入っている。
分厚くて広いテーブルは、人間国宝・黒田辰秋氏の作という。
そんな貴重なものとは知らずに、コーヒーをこぼしたり 消しゴムの汚れをこすりつけたり・・・
半世紀前の思い出になってしまった。

教養部時代、ここを根城に 読書会がたびたび催された。
文学論から 政治や宗教にいたるまで、青臭い言葉が行き交っていた。
ノンポリだったわたしは、そういう鼻息についてゆけず、早々と脱落してしまった。
故友の鈴村繁樹君も、わたしと似たような雰囲気だったに違いない。

鈴村君とわたしの根城は、荒神橋を渡って河原町通りに出る荒神口の 北東角の喫茶店・シアンクレールだった。
たいてい 2階に居座っていた。
1階はクラシックが主流で、2階はジャズ、たまにポピュラーも流れていた。

シアンクレールは、『二十歳の原点』の著者・高野悦子さんも よく通ったようである。
彼女は立命館の学生だったから、当時の広小路学舎から歩いて すぐ。
東一条から かなり離れたこの位置を どうして根城としたのか、たぶん、コピー屋さんの場所と関係していたのだと思う。
当時 A2版以上のコピーは、大学生協ではとれなかった。
荒神口を少し下った東側に、A0版までコピーできる店があった。
図面用の長細い丸筒を シアンクレールに置き忘れたことがあったから、ときどき荒神口まで来る用があったのだろう。

マイルス・ディヴィスやルイ・アームストロングの曲があふれる合間に、なぜか 荒木一郎の 『空に星があるように』が流れた。
わたしより先に 鈴村君が 「これ、いいねぇ」と言った。
先を越されて わたしは、「そうかなぁ」とかなんとか、あまりピッタンコ的なことは 言わなかったように記憶している。
『空に星があるように』を繰り返し聴くようになるのは、それから30年以上経ってからであった。

淡路島に 仕事で通いつめた時期があった。
線香を作るラインの仕事であった。
ブルーバードのワゴン車に乗って、須磨~岩屋間をフェリーで なんど往復したことか。
須磨のフェリー乗り場で、岩屋のフェリー乗り場で、何時間も何時間も乗船待ち。
その時間つぶしに聴いていたのが、岩崎宏美の 『聖母たちのララバイ』、そして 荒木一郎の 『空に星があるように』であった。


実は、先日、鈴村君のお墓におまいりした。
鈴村君の奥さま・千穂子さんからいただいた ことしの年賀状に、彼の墓を松山から移したとあった。
いつか 彼の墓におまいりしたい、そう思っていたのだが、広島を訪ねる決心ができた。
千穂子さんに無理をお願いして、鈴村君の墓参りを果たせたのである。

広島を訪ねるに先立って、千穂子さんから送っていただいた書物がある。
鈴村君の随筆が載っている 『ひろしまの風』(ポプラ社刊)と、彼も所属していた ‘ひろしま随筆’の最終号である。
彼の随筆 「新しい時間」から、自分のことは あまり語らなかった彼の、ほんとは誰にでもある 悩ましい軋轢を垣間見た。

‘ひろしま随筆’の最終号に、千穂子さんが 「ストーリーの傍らで」という ‘三枚随筆’を寄稿されていた。
その中で、彼女の好きな曲を 4曲あげている。
その4曲の中に、『空に星があるように』が入っているのを知って、ちょっと驚いた。
当然かな、とも思った。
しかし、彼女にお目にかかったとき シアンクレールでの鈴村君の発言をお話ししたのだが、まったくご存知ではなかったようである。


   空に星が あるように
   浜辺に砂が あるように
   ボクの心に たった一つの
   小さな夢が ありました

   風が東に 吹くように
   川が流れて 行くように
   時の流れに たった一つの
   小さな夢は 消えました

   淋しく 淋しく 星を見つめ
   ひとりで ひとりで 涙にぬれる
   何もかも すべては
   終わってしまったけれど
   何もかも まわりは
   消えてしまったけど

   春に小雨が 降るように
   秋に枯葉が 散るように
   それは誰にも あるような
   ただの季節の かわりめの頃


あの時、この曲の何が 鈴村君の心に響いたのか、いまなら 理解できる気がする。
須磨のフェリー乗り場で、岩屋のフェリー乗り場で、何度も何度も聴いていたという時代を経て、初めて深く理解できることなのだろう。
三枚随筆に 千穂子さんも書いてられるように、それは誰にも あるような ただの季節の かわりめの頃、であったのだと思う。


鈴村君の墓は、長男・倫太郎君が通っていた高校のグランドを見下ろせる、とても見晴らしのいい高台にあった。
「あのグランドで、倫太郎はサッカーに明け暮れていました」、同行していただいた鈴村君の義弟・茂樹さんが、そう教えてくれた。
倫太郎君は、きっとこの茂樹おじさんにも かわいがられていたのだろう、茂樹さんのお話の端々から そう感じられた。
鈴村君は、こんなにすてきなところに眠っているんだ。
千穂子さんに案内していただいた鈴村君の墓に、家内と共にお参りできたことが、心底うれしかった。

広島での涼やかな半日は、心安らかな 至福の時間であった。