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六足の靴、天城越え。

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このごろ、ふと思います。
この世は、巧妙な種と仕掛けの手品の世界みたい、だと。


机の右脇に、ずっと前から置いてある本。
トルストイの 『戦争と平和』です。

まず、登場人物の名前が、覚えられない。
何度も、見開きの ‘登場人物の紹介’に戻ります。
それに、ちょっと読んだら、眠くなる。
いいとこ、4~5ページです。

半分、あきらめています。
『戦争と平和』を読まなくても、生きてゆける。
変な理屈です。

いい本を見つけました。
吉田篤弘著 『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫)。
薄っぺらくて、ほわーっとしていて、空白が豊かで、センテンスが短くて、程よい長さの、それでいて続きもののストーリーで・・・
早い話が、読みやすいのです。
種も仕掛けもございません、そういう本です。


この本をリュックに入れて、一泊二日の旅に出ました。
50年来の六人の大学仲間との、伊豆への旅です。
集合地・三島までの列車の中で、『つむじ風食堂の夜』を読み始めました。

天気予報通り、大荒れの空模様。
天気の悪さの元凶を、互いになすりつけあいながら、六足の靴をびしょびしょにして、天城を越えました。
行き交う人影もなく、側溝の雨水があふれて川となった砂利道、鬱蒼とした木立で暮れかけのように薄暗い山道を、ずぶぬれになって、天城山隧道へ。

500メートル足らずの別世界。
等間隔でともる裸電球で照らし出されるトンネル内は、わたしたち六人だけの世界。
ひとりが唄いだした ♪天城越え♪ が、前から、後ろから、トンネル空間にこだまして・・・
これこそ、種も仕掛けもない、タイムスリップの妙。
土砂降りの外界は、嘘のようでした。

ベトナム笠をかぶりながらの七滝(ななだる)露天風呂、運行停止のあおりで閑散とした伊豆急終点の地・下田での散策・・・
気心知れた仲間との一泊二日は、ゆっくりなのか、飛ぶようなのか。

熱海で別れ、帰りの列車の中で、『つむじ風食堂の夜』を読み終えました。


巧妙な種と仕掛けの手品の世界など、もうどうでもいい。
種も仕掛けもない 絶妙の世界で、息をしつづけていけば、それでいいではないか。

『つむじ風食堂の夜』の中で、二代目<タブラ>さんは、親父さんを偲んで、こう話します。
もし、電車に乗り遅れて、ひとり駅に取り残されたとしても、まぁ、あわてるな。
黙って待っていれば、次の電車の一番乗りになれるからって。

待てども待てども、次の電車は来ないかも知れません。
でも それも、ひとつの生き方かも、と。
旅館の玄関に脱ぎだされた びしょびしょの、天城越えした六足の靴の残像が、なぜか わたしに、そう思わせてくれました。