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知識と知恵 そして智慧

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「知識と知恵は大違いだぞ」 が、父の口癖でした。
父が 「知恵」 を仏教的な奥深い意味を持つ 「智慧」 として捉えていたわけではないと思います。
「知識」 という言葉も、深い考えはなく、単に “学校で教わったことなど” といった意味合いで 使っていたのでしょう。
想像するに 父は、昔の多くの人たちがそうであったように、小さい頃に(私にとって祖父母に当る)親や親戚、近所の人たちから、あるいは 檀家寺でお経や法話を通じて、仏教で説く 「智慧」 を聞かされ、無意識のうちに 「智慧」 という言葉の持つ凄さを感じとっていたのかもしれません。

一丁前の職人を目指して過酷な労働の日々を送るうちに、先輩の技を真似盗みし 自分でも治具を作ったりして工夫を重ねる過程で身に付けた術(知恵)を、幼い頃に聞いた 「智慧」 という“すごい” ことの片鱗だと思い込んだのではないか、そんなふうに想像します。

私は、父の若年のことをほとんど知りません。
明治の終わり頃に東江州・三上山(通称:近江富士)の麓で 指物師の次男坊として生まれ、10歳そこそこで京都へ丁稚奉公に出ました。
母と結婚したときには すでに両親は亡く、戸籍上 兄が戸主となっていました。
父が自分の生まれ育った家のことを 話したことを、私は聞いたことがありません。
ただ、三上山と野洲川が遊び場所であったこと、野洲川の河原にドイツの双発機が着陸したとき 村あげての騒ぎになったことを、ポツポツと無表情に語ったのを、私は父との薄い薄い大切な繋がりとして記憶にとどめています。

話が飛びますが、 『暮しの手帖』 という雑誌で 「10人のお巡りさんに聞きました」 という ちょっとおもしろい記事を見ました。
道を尋ねられたお巡りさんが 管轄区域の地図をどこから取り出すかという たわいないテーマなのですが、10人中7人が帽子の中に仕舞っていたというのです。
お巡りさんの世界では それがひとつの非公式なしきたりみたいになっているそうなのですが、自転車からわざわざ降りて 道を尋ねた人にさっと帽子を脱いだお巡りさんを 遠目で眺めた記事の著者が、その行為が帽子の底に仕舞いこんでいる地図を取り出す前仕草だったと判ったとき、その光景がなんとも言えずほほえましいものに思え、また お巡りさんの知恵に とても温かいものを感じた と言うのです。

この 「知恵」 も、仏教で説く 「智慧」 に通ずるものを蔵していると思います。
仕事とはいえ、お巡りさんは いつ何時 道を尋ねられても 管轄する場所ならすばやく教えてあげたい、という他者を利する思いから、持ち歩くのに仕舞いの悪い大きな地図を どういう風にしたら動きやすい運び方ができるだろうと 工夫した結果の知恵なのですから。


父の 「知恵」 に このお巡りさんの 「知恵」 に感じるようなゆとりなど あったはずがありません。
どうしたら生きていけるか という、おのれを利する考えしかなかったでしょう。

私はこの年になってやっと、父のゆとりのない利己的な 「知恵」 にも、仏の説く 「智慧」 のかけらを見るようになりました。知識も知恵も、智慧をさずかるための修行だと、少し判りかけてきました。

父がどんな思いで 「知識と知恵は大違い」 と言ったのかと、いまは考えずにはいられません。
「知識と知恵は大違いだぞ」 と言った父を、とことん軽蔑した、“知識人”ぶった あの頃の自分を軽蔑します。

お盆に入り 終戦記念日の8月15日が近づくと、いつも思うことがあります。
終戦がお盆だったことが、偶然でない気がします。
深い計らいを感じます。終戦の日を この世にいない人を偲ぶお盆に定めた、見えない力を畏敬します。
そして、ささやかながら、自分しか思い出してあげられない、亡くなった人を偲ぶのです。

きょう、16日の京都は、五山送り火が灯ります。
今朝の京の街角の要所々々には、特別な廃棄段ボール箱が置かれます。
本来 川に流す、お盆のお供え物の処分用なのです。
朝8時頃になると、近くの町内の人たちが 思い思いに始末した お盆のお供えの包みを携えてやってきます。
包みを そっと段ボール箱に入れると、少し立ち止まり 手を合わせて去ってゆきます。
毎年見かけるこの光景が、今年はとりわけて印象に残りました。

今夜8時に点灯する送り火には、これらの人々が それぞれの胸の内にある送り人を偲んで、送り火に手を合わすことでしょう。
私も、その一人です。